当時、バイカル以東の人口については 「面積吾国に五倍する所に人口僅か二百万」 といわれていた。
戦災避難などによって各地の人口は常に激しく変動しているが、上記の数値は、大阪朝日新聞 『尼港と樺太』 (1920(大正9).11.24-1920.12.16)の記事に掲載されていた数値 (州の面積は 「方哩」(平方マイル) をメートル法表記に換算) である。
極東共和国内のおもな都市の人口は、
チタ 79,200 人 (ザバイカル州)、
ブラゴヴェシチェンスク 62,500 人 (アムール州)、
ハバロフスク 51,300 人、
ヴラヂヴォストク 91,464 人 (沿海州)、
ニコラエフスク 12,000〜13,000 人であった。
都市に生活する者は全住民の僅々8%内外に過ぎなかった。
また、極東共和国の領域以外では、
イルクーツク 129,700 人、
トムスク 116,664 人、
オムスク 135,800 人
となっており、これら3市は、当時シベリアの3大都市といわれていた。
極東地方の産業
極東共和国が存在していた1920年〜22年当時、極東地方の産業は次のような状況であった。
鉱業:
鉱業産物の中で最も豊富なものは沙金であり、その主要産地としてアムール州 (ゼーヤ鉱区) が有名である。
沙金の外には鉄と石炭を多量に産出するが、その採掘事業はまだほとんど発達していない。
アムール州および沿海州には無尽蔵の良質な鉄山が各所にある。
石炭は沿海州の各地で産出しており、それらはウスリー鉄道の沿線に近く、輸送の便がある。
また、サハリン州のアレクサンドロフスク付近の炭坑は全く無尽蔵といわれている。
その他の鉱業資源としては、白金、銀、銅、錫、亜鉛、マンガン、モリブデン、アンチモンなどが、所々に産出する。
農業:
沿海州を除いて、極東地方の農業は未発達の状態であり、自給自足ができないため、その大部分を輸入に頼っている。
アムール州では、開墾可能な肥沃な土地は少なくないが、目下のところほとんど耕作が行われていない。
主な農産物は、小麦および蕎麦のほか、大豆、大麦、燕麦などである。
牧畜:
シベリア原住民にとって牧畜は最も主要な生業で、アムール州および沿海州では牛肉と牛乳用の牧牛が行われている。
アムール州産の馬は優良で、あまり大きな体躯ではないが力が強く、原住民の唯一の財産として非常に尊重されている。
林業:
アムール州および沿海州は、ほとんど全土が森林に蔽われているといっても過言でないほど森林資源は豊富である。
植林事業は行われていないが、建築および工業用材として尊重される有価樹林が豊富にあり、これらの材木は水運あるいは鉄道によって各方面に搬出されている。
狩猟:
極東地方のいたるところに貴重な毛皮を供給する獣類が多数棲息しており、狩猟は原住民にとって極めて重要な職業の一である。
漁業:
沿海州やカムチャツカ西海岸の漁場は魚種や漁獲量が豊富であり、これらの地域の漁業は日本と密接な関係をもっている。
工業:
製鉄業その他の金属品製造、農産物を原料とする工業として製粉業、酪農品製造業、ビール醸造業など、水産物や獣肉の缶詰、毛皮製造など、
林業関連では製材、製紙および家具製造などの各種工業が行われているが、規模は大きくない。
極東共和国では、土地、森林、鉱山などの資源について私有は禁じられているが、一般に私有財産や、個人、各種組合、公共団体、国家機関などによる商取引や輸出入は認められている。
極東共和国の国章と国旗
極東共和国の国章について、1921年4月27日の憲法に次のように記述されている。

第180条
国章を定める。
その描画は次のとおりである。
赤い盾の上に針葉樹の松の飾り環、その内側には朝の曙光を背景に、姿を現した太陽と (上部に) 五芒の銀の星。
先端を下にして、小麦の穂束を貫いて交叉した錨と先の尖った槌つるはし。
右側からの飾り環に "Д (デー)" の文字が赤い帯に、左側からの飾り環に "В (ヴェー)" 、下部に針葉樹の小枝の把手の間に "Р (エル)"の文字。
「ДВР」 は、「極東共和国 Дальневосточная республика 」の略号。
この国章にある 「錨」、「小麦の穂束」、「槌つるはし (単端の手堀り用の金採取つるはし)」 は、極東共和国の主要な3つの地域 (錨:沿海地方、小麦の穂束:沿アムール地方、槌つるはし:ザバイカル地方) の統合を象徴している。
極東共和国の国旗は、1920年11月11日付の極東共和国政府の決議によって確定された。

国旗は2色で、布長が幅の 1.5倍の赤い布地に、旗竿側の縦および幅の上部半分が紺色 (тёмно-синий) の四角形、そこに赤い文字で "Д. В. Р." が三角形状に配置されている。
極東共和国の終焉
極東共和国は、日本軍の存在という特殊な条件のもとで成立した緩衝国家であり、日本から干渉継続の名分を奪い、日本軍の撤退を促進するための戦略としての意義をもつものであった。
1922年10月25日に日本シベリア派遣軍の最終部隊がヴラヂヴォストクを出港すると (シベリア派遣軍の撤兵)、入代るように極東共和国人民革命軍がヴラヂヴォストクに入った。
1922年11月15日、緩衝国家としての役割を終えた極東共和国は、正式にロシア社会主義連邦ソヴェト共和国に合同した。
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「全軍、シベリア撤退を完了」 (1922 (大正11).10.26 「大阪毎日新聞」)
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「チタを莫斯科へ隷属」 (1922 (大正11).11.5 「大阪朝日新聞」)
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「極東共和国、ソビエト=ロシアに合併」 (1922 (大正11).11.18 「大阪毎日新聞」)
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「革命委員会成立でチタの極東共和国廃止」 (1922 (大正11).12.3 「時事新報 (夕刊)」)
極東共和国の通貨制度
極東共和国は、1920年4月6日にヴェルフネウヂンスクで、その成立が宣言された。
7月27日に極東共和国の臨時政府は、「極東共和国の国体である新しい共和制に、外見上相応しい紙幣を以って、共和国内に流通している各種様式紙幣と交代するため」、新しい様式の紙幣として、極東共和国信用券を額面1、3、5、10、500、1,000ルーブルで発行し、コルチャーク政権下で発行された 「シベリア紙幣」 などの旧来の紙幣の流通を停止して、それらの旧紙幣200ルーブル当り1ルーブルの引換相場で無条件に引き換えた。
これらの新しい様式の紙幣は、流通地域が日本軍との緩衝地帯となっていたため、一般には 「緩衝紙幣」 と呼ばれた。
1920年10月、極東共和国政府がヴェルフネウヂンスクからチタに移り、極東3州が統一され、信用券の発行も、ヴェルフネウヂンスクからチタに移された。
11月2日、極東共和国領域内における紙幣流通に関する暫定的な法令が公布され、さらに、この暫定的な法令が整備されて、極東共和国領域内における紙幣流通に関する11月15日付新法令が公布された (これに伴って、11月2日付法令は失効した)。
そこでは、極東共和国の領域内では、極東共和国の成立以前に、ヴェルフネウヂンスクやベルフネウヂンスク (アムール州)、ヴラヂヴォストク (沿海州) の暫定的な革命政権が個別に発行した緩衝紙幣や、帝政時代に発行された紙幣、ソヴェト紙幣などが、共和国内全域での流通を認められ、「シベリア紙幣」 や同じく反革命政権であった G.M.セミョーノフ の政府が発行した紙幣など、敵対的な勢力が発行した紙幣は、当然のことながら無効とされた。
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「極東共和国の領域における信用券および紙幣の流通に関する法律」(1920.11.15)
極東共和国の紙幣の発行は1921年7月に停止されたが、1922年11月15日に極東共和国がロシア社会主義連邦ソヴェト共和国へ併合されたことに伴って、極東共和国の紙幣は 「公式に」 流通市場から引き上げられた。
しかし、すでに1921年末には、極東共和国の紙幣の支払手段としての価値は額面1000ルーブルの信用券が1金コペイカ (金買入価格を基にした計算単位) 以下に下落しており、極東共和国の紙幣は実際上流通市場で使用されていなかった。
è 緩衝紙幣 (極東共和国以前)
è 極東共和国信用券
è 極東共和国計算票
極東共和国の郵便制度
極東共和国では、1920〜23年に独自の郵便切手が発行されている。
1920年1月5日にアメリカ合衆国がシベリアからの撤兵を決定し、日本も政治的中立 (極東各地の政変に対しては不干渉) を宣言すると、ザバイカル州西部のヴェルフネウヂンスクには 「沿バイカル臨時政府 (臨時ヴェルフネウヂンスク政府)」 が成立 (3月上旬) し、アムール州のブラゴヴェシチェンスクに 「労農兵士コサック代表ソヴェト臨時執行委員会」 が成立 (2月6日)、沿海州のヴラヂヴォストクには 「沿海州自治会臨時政府 (浦塩臨時政府)」 が成立 (1月31日) するなど、ロシア極東の各地で革命勢力が政権を樹立した。
一方、チタでは反革命のG.M.セミョーノフが日本軍の支援を受けて占領を続けており、ザバイカル州は二分されていた (チタの栓)。
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ヴェルフネウヂンスク (沿バイカル臨時政府) の郵便切手
ヴェルフネウヂンスクの 「沿バイカル臨時政府」 は、1920年4月に、帝政時代の郵便切手などにスタンプ加刷された独自の郵便切手を発行している。
スタンプには、 「沿バイカル臨時政府 Временная земская власть Прибайкалья 」 の銘とその下に旭日を背景に鋤 (すき) が描かれている。
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ブラゴヴェシチェンスク (アムール州執行委員会) の郵便切手
1920年の夏〜秋、チタには反革命のセミョーノフ軍が居座っており (チタの栓)、さらに日本軍 がチタとハバロフスクに駐屯していた。
そのため、ブラゴヴェシチェンスク地方は、ロシア極東の他のパルチザン 「共和国」 から隔離された状況下にあり、独自の郵便切手を発行することになった。
1920年末、アムール州の人民革命委員会 Народно-революционный комитет Благовещенска は郵便切手の発行を決定した。
郵便切手は、無目打で、2、3、5、15および30ルーブルの5種類の額面価格で発行されている。
郵便切手には、アムール州の紋章の周囲に 「アムール州郵便切手 Амурская областная почтовая марка 」 の銘、交叉した2つの郵便の角笛が描かれている。
極東共和国がロシア社会主義連邦ソヴェト共和国に併合された後、残余の切手はブラゴヴェシチェンスクで無効とされ、モスクワへ送られた。
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ヴラヂヴォストク (極東臨時政府) の郵便切手
ヴラヂヴォストクの沿海州自治会臨時政府は社会革命党 (エスエル) 政権を自称し、過激派 (ボリシェヴィキ) とは一線を引く態度を公示したが、過激派と事を構えて軍事的緊張を高めることは日本に干渉の口実を与えることになるとして、1920年4月、ボリシェヴィキと妥協し、「極東政府」 の名の下に各政派を連合し、新たに政府を組織することを宣言した。
5月29日、諸政派による連立政府 「極東臨時政府」 が組織され、ボリシェヴィキの強い影響の下に、その首班には沿海州自治会臨時政府のA.S.メドヴェーヂェフ (エスエル)、首相にはボリシェヴィキのP.M.ニキーフォロフが就いた。
1920年11月にヴラヂヴォストクで沿海州用の郵便切手が発行された。
この切手は、帝政ロシアの郵便切手や貯金切手、オムスク政府の郵便切手 (帝政ロシアの郵便切手に額面価格がリトグラフ加刷されたもの) に、極東共和国を表す略号 「ДВР」 がリトグラフ(石版印刷)で加刷されている。
1920年12月13日、ヴラヂヴォストクの極東臨時政府 Временное Правительство Дальнего Востока は、正式に同政府の解体とこれまで委任されていた国家の全権をチタの極東共和国へ返還することを宣言するとともに、
「極東共和国沿海州政庁 Приморское областное управление ДВР 」 政府の成立を発表した。
これによって沿海州は名実ともにチタに首都をおく極東共和国に組み込まれ、極東共和国の領域は、バイカル湖から太平洋岸にいたる極東全域に及ぶようになった。
ヴラヂヴォストクでは、独自の図柄の4種類の額面価格の郵便切手が発行されている。
切手は無目打で、ロシアの臨時政府の紋章が描かれており、その周囲に 「極東共和国」 の銘、交叉した2つの郵便の角笛の記章が紋章の下に入っている。
切手は単色で、細かい網の入った用紙にリトグラフ印刷されている。
これらの郵便切手は、極東共和国で使用するために準備されたものであるが、1921年5月26日にヴラヂヴォストクで駐留日本軍の支持のもとにクーデターを起こしたコルチャーク軍の残党であるカッペリ兵団によって
樹立された 「沿アムール臨時政府 Приамурское временное правительство 」 が1921年7月に発行し使用した。
「沿アムール臨時政府」 の反革命軍は1921年11月30日にウスリー鉄道沿いに北上し、同年12月22日にはハバロフスクを占領、さらにハバロフスク西方のヴォロチャーエフカに陣地を築いた。
翌1922年2月5日に極東共和国人民革命軍部隊が攻勢に転じ、2月10日ヴォロチャーエフカへの突撃を開始した。
3昼夜に及ぶ激戦の末、2月12日にヴォロチャーエフカは人民革命軍に占領された (ヴォロチャーエフカの日々)。
そして、2月14日にはハバロフスクが解放された。
***
チタ (極東共和国) の郵便切手
1920年4月6日、ヴェルフネウヂンスクで勤労者パルチザン・ザバイカル地方制憲大会が開催され、 「極東共和国」 の成立が宣言された。 同年8月、チタに駐屯していた日本のシベリア派遣軍 (第五師団) がチタを撤退すると、10月には極東共和国人民革命軍とパルチザン部隊がチタへ進撃し、チタに残っていたセミョーノフ軍部隊を駆逐してチタを解放し、極東共和国の首都をヴェルフネウヂンスクからチタへ移した。
1920年10月28日〜11月10日、チタで 「極東諸州代表者会議」 が開かれ、極東3州の各地政府 (チタの極東共和国臨時政府、ブラゴヴェシチェンスクのアムール州執行委員会、ヴラヂヴォストクの極東臨時政府) の解消と極東共和国への統一、極東共和国憲法制定会議の招集が決まった。
1921年7月25日、極東共和国は 「新しい郵便物証票の発行について」 の法律を採択した。
同年11月〜12月に、極東共和国の全領域で使用するための独自の図柄の郵便切手が、10種類の額面価格で発行された。
切手には極東共和国の紋章が描かれており、それらは極東共和国の国立印刷所で白紙にリトグラフ印刷された。
1922年11月15日、極東共和国はロシア社会主義連邦ソヴェト共和国に併合されたが、その後も1923年に至るまで、極東地方で独自の郵便切手の発行が続けられた。
***
極東州革命委員会の郵便切手
極東共和国がロシア社会主義連邦ソヴェト共和国に併合された後は、極東州革命委員会 Дальоблревком が、かっての極東共和国の領域における郵便切手の発行を行った。
1922年11月7日、革命委員会の指導のもと、十月革命5周年の記念切手が発行された。
ヴラヂヴォストクで発行された極東共和国の切手に、3行で記念の年月日 「1917 7.XI 1922」 が赤い染料で加刷されている。
十月革命は、ロシアの旧暦 (露暦、ユリウス暦) で1917年10月25日、現行暦 (グレゴリオ暦) では11月7日に始まった。
1923年には通常切手が発行された。
4種類のロシア社会主義連邦ソヴェト共和国の郵便切手に、Д.В.(極東) の略号、および коп の間に額面価格と золотом (金コペイカ=貨幣単位) が3行で、黒または赤の染料で加刷されている。
《解 説》
シベリア争乱、1918−1920年 /
チェコスロヴァキア軍団事件 /
シベリア出兵 /
極東共和国
ロシアの通貨
≫
ロシア革命の貨幣史 /
シベリア異聞