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(ロシア革命の貨幣史) シベリア異聞 《解 説》

シベリア出兵

Японская интервенция на Дальнем Востоке в 1918 - 25 гг.

 


 

Японские интервенты 
во Владивостоке. 1918. 十月革命に端を発する革命側と反革命側との武力対決 (内戦) に対して列強は、それぞれの思惑から反革命の側に積極的に加担し、膨大な軍事支援を反革命勢力に与えた。 これら列強の中でも日本は、1918年より1922年まで足かけ5年の長期にわたって、一時期には7万を越す大軍をロシア極東へ派兵し、自らも革命勢力と直接戦闘を交えている。 この日本の行ったロシア極東での軍事干渉を 「シベリア出兵」 という。

ここでいうシベリアとは、「1917年まではウラル以東、太平洋までの全地域をさす言葉であったのが、革命の過程で、この地域は極東とシベリアの二つに分けられた。 革命後の用語法では、「極東」 とは、極東共和国 の版図に入った部分、すなわち、日本軍の侵略を受けた地域をさす。 ・・・ 一方、「出兵」 した日本側にとっての 「シベリア」 とは、バイカル以東の、「極東」 をさす。」 (和田春樹 『シベリア戦争史研究の諸問題』 ロシア史研究 No.20、1973年4月)

 


 

    「シベリア出兵」 当時、日本国内で報道された新聞記事を参照しながら、この軍事干渉の経緯を概説する。 新聞記事は 『大正ニュース事典』(毎日コミュニケーションズ、1987年) より転用した。 ただし、『大正ニュース事典』 では、記事の見出しは元の資料と異なっており、本文も現代風に書き直されている。

第一次大戦のさなか、1917年10月25日 (現行暦11月7日) 午前10時、ペトログラード・ソヴェト軍事革命委員会は臨時政府が打倒され、同委員会が権力を掌握したことを宣言した (十月革命)。 臨時政府の閣僚が残る冬宮は26日未明に占領され、この武装蜂起と並行して開かれた第二回全ロシア労働者・兵士代表ソヴェト大会は権力のソヴェトへの移行を宣言した。 そして、27日には大会は全交戦国に無併合・無賠償の講和を提案する 「平和についての布告」、地主からの土地の没収を宣言する 「土地についての布告」 を採択し、新しい政府としてレーニンを議長とする 「人民委員会議」 を設立した。 大会後、ソヴェト政府 (人民委員会議) はただちにアメリカ合衆国、イギリス、フランス、イタリア、セルビア、ベルギーの政府に覚え書を送り、「平和についての布告は、全戦線で休戦協定を結び、ただちに平和交渉を始める提議とみなされるべきである」 と通告した。 しかしながら、この覚え書を送られた各政府は、これに対する回答を示さなかった。 そのため、ソヴェト政府はドイツおよびオーストリア・ハンガリー政府と単独に講和交渉を行うことになった。

ドイツとの講和によるロシアの対独戦線離脱を危惧し、ソヴェト国家の存在を全資本主義体制への脅威と考える連合国列強は、1917年12月にはパリで会議を開いて、公然とロシアの革命に干渉することを議論した。

1918年3月には最初のイギリスおよびフランス軍部隊がムルマンスクに上陸していたが、シベリアで5月に勃発した チェコスロヴァキア軍団 による反ボリシェヴィキの反乱が、連合国列強による反革命の決定的な行動への合図となった。

 


 

日本では、十月革命直後から、革命後の混乱に乗じて日本の勢力範囲を北満、さらに東部シベリアに拡大するとともに、これによってロシアの革命が日本へ波及することを防ごうとする見解が支配層内部に存在しており、陸軍ではこの目的を実現するための出兵計画が密かに検討されていた。

チェコスロヴァキア軍団の 「反乱」 に先立つ1918年1月、イギリスは日本政府に対して、ヴラヂヴォストクに集積されている 635,000トンの軍需物資確保を名目に共同出兵を提案してきた。 このイギリスの提案に対しては、「目下のところ日本には出兵の意思がない」 と回答している。

ただし、1918年1月13日には居留民保護のため日本の軍艦 「石見」 が、続いて17日には 「朝日」 がヴラヂヴォストクに入港しており、4月4日に日本人殺害事件が発生したことで翌5日、ヴラヂヴォストクに停泊していた軍艦 「石見」 と 「朝日」 の陸戦隊約500人がイギリス軍艦 「サフォーク」 の水兵50人とともにがヴラヂヴォストクへ上陸した。

 


 

列強それぞれの思惑は、「国益至上」 の大原則の上に交錯していた。 「東部戦線」 の再建を切望するイギリスとフランスは、日本とアメリカ合衆国に対して、シベリア派兵を働きかけていたが、「内政不干渉」 を唱える合衆国政府は始めこの提案を拒否していた。 それは、シベリアでの軍事干渉には日本を主力とせざるを得ず、そのために干渉の成果 (利権) を日本に独占されることを恐れたからである。 一方、アメリカ合衆国との協調関係を重視する日本政府や軍部の上層部は、アメリカの支持を得られない当初においてはシベリアへの派兵に積極的でなかった。 しかし、チェコスロヴァキア軍団事件の発生は、その実情がかなり誇張されて伝わっていたこともあって、アメリカ合衆国の態度に変化をもたらした。

1918年7月6日、ヴェルサイユで開かれていた連合国の最高軍事会議からアメリカに対して干渉要請の正式な申し入れが提出された (7月3日) ことに対して、アメリカ合衆国政府は最高首脳部会議 (大統領、国務長官、陸軍長官、海軍長官、参謀総長、軍令部長で構成) を開き、干渉政策を決定した。 その干渉政策とは、日本の協力なしに派兵は不可能であることから、日本政府の同意を条件として、「干渉の直接目的をチェク軍の救援に限定し、ウラディヴォストークから西進するチェク軍の背面と交通線とを掩護する目的で、それに必要な限りの一定數 ― 日米両国ともに七千名 ― の兵力を、限定された地域に派遣しようというものであった」(細谷千博 『シベリア出兵の史的研究』)。 最高首脳部会議の決定にもとづいて、ランシング国務長官は7月8日に石井駐米大使を国務省に招き、日本政府の協力を要請した。 アメリカからの 「限定出兵」 の提議に対して、日本政府は7月12日に臨時閣議を開き、「兵力數と派兵地域とにおいて獨自の立場をとり出兵を敢行」 することを決定し、外交調査会 (7月16日〜18日) の承認を得て、アメリカ政府にこの 「対案」 をもって回答した。 アメリカ政府としては日本の回答に不満であったが、日本の 「対案」 に譲歩できる範囲が検討された。 「限定出兵」 の線を崩すことはアメリカ政策の基本方針に反することであり許されなかった。 そこで日本の派遣軍に数的優越を認めても、無制限の出兵となることは容認できず、一定の数的制限を付することが不可欠の要件であり、その数は 「一萬乃至一萬二千以下」 と決定されたが、「第一回の送兵は一萬乃至一萬二千以内にとどめ、第二回の送兵については、必要がおこった場合、別問題として」 議論することとされた。 それとともに派兵範囲をヴラヂヴォストクの外に拡大することも、「限定出兵」 の趣旨にもとることであったが、これについては 「チェク軍救援の目的以外には、ウラディヴォストーク以外の方面に出動したり、増援部隊を派遣したりすることは決してない」 との石井駐米大使の強い断言によって、基本的立場の対立を曖昧にしたまま、「ヴラヂヴォストク」 への派兵は日米間で 「合意」 に至った。

    日米同数と云ふ事は実際に於て不可能なり、編制の相異もあり、又軍事上の必要もあり (内実可成多数を望むは当局者の計画と見ゆ)、又同数と制限せらるゝに於ては日本人民をして米国は我国の野心を疑ひて制限を設けたりとの誤解を生ずる虞あれば、同数と云ふ事は不可能なり、之に加ふるに西伯利亜に於ては種々の故障あり、チェックを安全に救済せんには浦塩に出兵の同意をなすと同時に浦塩已外に於ても必要と認むる地点には出兵すべしと云ふ趣旨の原案なり、即ちチェックを救済すると同時我自衛の必要ありて各地に出兵すべしとの事なりき。 (「原敬日記」 大正7年(1918年)7月16日)
    (物見遊山でもあるまいし、アメリカ合衆国の 「限定出兵」 の主張はナンセンス、といったところか ...?)

 

 

日本政府は1918年 (大正7年) 8月2日にシベリアへの出兵を告示し、「差当リ一万二千ノ範囲ニ於テ」、第十二師団の先発隊 (第一梯団) が8月11日にヴラヂヴォストクに上陸した。 そして、8月下旬には 「引続キ形勢ノ発展ニ応シ更ニ之ヲ増加スルコトトナリ」 第十二師団の後発部隊 (第二梯団) が続いた。

ヴラヂヴォストクから北上した日本軍は9月4日にハバロフスクへ進駐して、沿海州 (プリモーリエ州) および黒龍州 (アムール州) 東部を制圧し、9月18日にはブラゴヴェシチェンスクに到達した。 さらに、第七師団の一部を北満方面からチタへ (9月6日チタ占領)、第三師団を満洲里からザバイカル州へ進撃させた (第七師団の部隊と交代) 。

この間、派兵の 「直接目的」 であった救援されるべきチェコスロヴァキア軍団は、沿海州から西進する部隊と西部シベリアから東進する部隊が1918年8月末〜9月初旬にオノン河畔 (ザバイカル州) で連絡している。 これによって、(「ウラディヴォストークから西進するチェク軍の背面と交通線とを掩護する」 という) 日本および列強のシベリア出兵の目的は一段落したはずであったが、派遣軍の兵力は、1918年10月末には3個師団7万2,400人を数え、途中での兵力の減増、派遣師団の交代はあったものの、日本の派遣軍はこれ以降4年2か月もの長きにわたってシベリアに止まることになる。

   
  • 大正7年(1918年)11月4日の陸軍省調査では、出征部隊兵員数として以下の数字をあげている。

 
   

1. 沿海州および黒龍江州方面、浦潮派遣軍司令官隷下、第十二師団を基幹として、

 
     

戦闘員

17,200

 

非戦闘員

 6,800

 

24,000

   
   

2. 後貝加爾州方面、第三師団長隷下、第三師団を基幹として、

 
     

戦闘員

17,900

 

非戦闘員

 4,300

 

22,200

   
   

3. 北満洲方面、関東都督の隷下、第七師団(満洲駐剳) ほか

 
     

戦闘員

 7,100

 

非戦闘員

 5,300

 

12,400

   
   

以上合計

 
     

戦闘員

42,200

 

非戦闘員

16,400

 

58,600

   
   

今月中還送すべき人員を含みたるとき

 
     

戦闘員

44,700

 

非戦闘員

27,700

 

72,400

   
   
  • 1918年11月20日のアメリカ合衆国政府への覚書で、「わが兵力数58,600」 と回答。

  • 「チェコスロヴァキア軍救援」 という当面の目的を達し、また、派遣兵員数についてアメリカ合衆国政府より再三の強い抗議があったため、1918年12月19日の閣議でシベリア派遣軍の兵力を34,000減少することを決定、予後備役後方部隊等を送還。

  • 1919年4月、満洲守備の任務を有する第十六師団から1箇旅団が第七師団と交代、第十四師団を派遣、浦潮派遣軍の編制改正および配置移動があり (兵員総数28,200)、6月に第十四師団と交代した第十二師団が内地帰還。

    第十四師団歩兵第二連隊のハバロフスク市街分列行進 第十四師団歩兵第六十六連隊のハバロフスク市街分列行進
    ハバロフスク市街を分列行進する第十四師団 = 歩兵第二連隊(左) と歩兵第六十六連隊(右)

  • 1919年8月、第五師団を派遣し、第三師団と交代。

  • 1919年9月、第十三師団より歩兵1箇旅団、工兵1箇大隊を派遣し、兵員総数34,700。 1920年1月13日、閣議で半個師団の増員を決定し、第十三師団の残余5,000を派遣。

 
 

 

 

 
日本軍の主な活動地域はアムール河流域と沿海州であった。 同時に、日本軍は莫大な武器弾薬や軍資金をオムスクの コルチャーク 反革命政権に注ぎ込み、セミョーノフ やホルヴァート、カルムィコフの白衛軍部隊の編成に協力した。

    日本政府は、セミョーノフへの武器援助を1918年2月中旬に決定している。 日本政府の方針としては、「コルチャーク政権をロシア復興の中心として認めるが、極東においてはホルヴァートやセミョーノフに支持を与え、その勢力の拡張をはかる」 というものであった。

    「セミョーノフ」 に対する日本補助一ヶ月三十万円 (二万の兵)。 (「八杉貞利日記 ろしや路」 63ページ、図書新聞社、昭和42年) = 大正8年 (1919年) 夏頃の、チタ副領事談として紹介している記録である。 (この当時の貨幣価値の換算は単純ではないが、時価換算率は概ね1,500〜2,000倍と思われる。)

 


 

1918年11月11日、大戦が終結し、休戦条約が締結された。 対独講和成立とともに、英仏によるコルチャーク政府への支援は弱化し、翌1919年11月にオムスクが陥落した。 このオムスク陥落は、アメリカ国内にあった反革命政権援助の空気を冷却させた。 12月16日には連合国による反革命軍への援助中止が決定され、イルクーツクへ敗走したA.V.コルチャークと彼の閣僚たちは12月27日、彼らを警護してきたチェコスロヴァキア軍部隊の保護下に拘束された後、翌1920年1月にイルクーツク近郊で反コルチャーク政権へ引き渡され、コルチャークと全ロシア臨時政府の首相V.N.ペペリャーエフは2月7日にイルクーツク軍事革命委員会によって銃殺された。

大戦の終結とオムスク政府の崩壊は、連合国各国の対ロシア政策に変化を来し、各国のシベリア派遣軍は漸次撤退した。 イギリス軍 (カナダ軍も含む) は、既に1919年 (大正8年) 5月より10月までの間に全て撤退しており、 翌1920年 (大正9年) 1月初旬にはアメリカ軍がシベリア撤退を通告、1月16日より撤退を開始して、4月には全部隊の撤収を完了した。 中国軍は、アメリカ軍がシベリア撤退を声明すると、同年4月より7月までの間に沿海州を撤退した。 フランス軍 (および、その支援のもとに編成されていたポーランド、セルビア、ルーマニア軍) とイタリア軍は、1920年 (大正9年) 8月をもって全て撤退した。

各国のシベリア派兵の名目となったチェコスロヴァキア軍の本国送還は、1920年 (大正9年) 2月以降、アメリカ合衆国の輸送船で3万6,000人、イギリス船で1万5,000人、その他日本、ロシア、中国の輸送船を使って行われ、9月2日に最後の梯団1,250名を乗せたアメリカ合衆国の輸送船ヘフロン号がヴラヂヴォストクを出航している。

日本は、1920年3月2日、出兵目的を鮮満 (朝鮮半島および満洲) に対するボリシェヴィズムの脅威阻止に変更して、「守備地域ヲ縮小シテ、依然シベリア派遣軍ノ駐留ヲ継続スル」 基本方針を閣議決定し、3月5日に外交調査会でこの基本方針を承認した。

 


 

極東共和国の最大版図 1920年3月、コルチャーク軍を撃破して極東へ進撃してきたソヴェト赤軍は、ヴェルフネウヂンスクの占領後、これ以上東へ向って進むことができなくなった。 日本軍が集結していたチタを攻撃すれば、日本軍と衝突することになり、日本とソヴェト共和国との公然の戦争となることは明らかであった。 当時、西部国境ではポーランド軍とヴランゲリ白衛軍による新たな危機が迫っており、ソヴェト共和国は極東で日本軍との武力衝突を避けなければならなかった。 そのため、ソヴェト政府は、極東に 「緩衝」 国家を作り、ソヴェト共和国が日本と直接に接触しないようにする政策をとった。 こうして、1920年4月6日、ヴェルフネウヂンスクに 極東共和国 が成立し、臨時政府の首班には A.M.クラスノシチョコフ が就いた。

しかし、極東の各地で駐留を続ける日本軍とパルチザン部隊との衝突は激しくなった。 沿海州内では4月4日夜から日本軍の総攻撃が始まり、ヴラヂヴォストクやハバロフスクなどでパルチザン部隊の武装解除を行っている。 また、4月20日には、チタで日本軍と 極東共和国人民革命軍 が衝突した。

Представители ДВР 
и японского командования 
на ст. Гонгота. 5月24日〜7月15日、チタから120 km のゴンゴタ駅で極東共和国臨時政府の代表団と日本軍の代表団との間で停戦交渉が行われ、日本軍のザバイカル州からの撤退と、赤軍の極東共和国への進駐禁止が同意された (ゴンゴタでの停戦協定)。


日本政府は、チタに駐屯している第五師団 (1919年9月に第三師団と交代) をハルビンに撤退させることを1920年6月1日の閣議で決定し、8月20日にはザバイカル州からの撤退が完了した。 また、ハバロフスク撤退が9月10日の閣議で決定された。

しかし、尼港事件 (1920年5月、サハリン州のニコラエフスクで日本軍守備隊、領事館員、在留日本人が多数惨殺された) の交渉に足る正統政府が樹立されてこの問題が解決するまでは北樺太を占領し続けることとし (尼港事件保障占領)、また、沿海州では朝鮮に対する脅威が排除されておらず、多数の日本人が在留しているため、ヴラヂヴォストクに相当数の軍隊の駐留が必要であるとした。

この年の9月にはヴラヂヴォストクに集結していたチェコスロヴァキア軍が総員引き揚げを完了しており、日本の派遣軍のみが連合国軍から取り残されて、これよりさらに2年の間、ひとり苦戦を続けたのである。 その間、出兵の目的は 「チェコ軍救援」 から 「コルチャーク政権援助」 に変わり、さらに1920年 (大正9年) 3月には 「国防自衛・居留民の生命財産の保護」 へと変更されていた。

 


 

1920年末以来、極東共和国の代表は、ヴラヂヴォストクで日本の外交代表に接触し、撤兵と通商に関する協定締結の意向を表明していた。 1921年5月、日本政府は交渉への応諾と撤兵の条件として、極東共和国における有産民主制度の確実な実行、共産主義宣伝の禁止、漁業権などの日本既得権の尊重、共和国内部の軍事施設の禁止、ヴラヂヴォストクの商港としての開放などの協定案を提示した (大正10年5月13日 「極東共和国との交渉要件閣議決定」)。 会議は満洲の大連で8月26日から開始されたが、撤兵期限の明示についての意見の決定的な対立などから、翌22年4月16日、交渉は決裂した。

高橋是清内閣の後を受けて1922年 (大正11年) 6月12日に成立した加藤友三郎内閣は、6月23日の閣議で、シベリアからの撤兵を決定した (24日、シベリア撤兵問題を付議するため臨時外交調査会で承認)。 この撤兵表明によって交渉再開の機運がうまれ、開催地を長春に移して9月4日から会議が開かれたが、協定をみないまま9月25日に決裂した。

シベリア派遣軍は8月26日から帰還を開始し、10月25日に最終部隊のヴラヂヴォストク出港とともに撤兵は完了したが、尼港事件保障占領の北樺太からの撤退は更に遅れ、1925年(大正14年)1月になる (撤退完了は5月15日)。

「シベリア出兵」 での日本の戦費9億円、参加将兵の総数約24万、戦死者約5,000名、負傷者約2,600名といわれている。 ロシア側の記録では、この干渉によって、ロシアの極東地域では8万人以上の住民が殺され、6億ルーブル以上の被害があったという。

    当時、日本の国家予算規模 (一般会計歳出額) は、5億8,000万円 (大正4(1915)年)〜14億3,000万円 (大正11(1922)年) であった。 1金ルーブルは約1円3銭 (当時)。

 



シベリア出兵の軍事郵便

 

日本では、日清戦争 (1894年(明治27年)7月〜1895年(明治28年)3月) において海外に派遣する軍人軍属のため、1894年 (明治27年) 6月14日 「勅令第67号」 及び同16日 「軍事郵便取扱細則」 により、軍事郵便の制度が定められた。 そこでは、軍事作戦に参加する部隊の将兵の便宜を図るため、野戦郵便局とよばれる軍事郵便を取り扱うための移動郵便局が設置された。

「シベリア出兵」 では、封緘葉書 (郵便書簡) や私製葉書、絵葉書などを軍事葉書に転用したものが多く見られるが、左に掲載した葉書は、ロシアの臨時政府 (ケレンスキー政権) のもとで発行された官製葉書 (国内用5コペイカ) を使用したもので、 「軍事郵便」 のスタンプが押されている (無料扱い)。 消印には 「第二十一野戦郵便継立所」 とある。 日付は 「8.1.1.」 (大正8年 (1919年) 1月1日)。

この軍事葉書は、ザバイカル州方面へ派遣された第三師団 (名古屋) の将兵が、故郷 (岐阜県武儀郡上牧村 = 現在は美濃市) の近親者へ差し出した年賀状と思われる。  宛名側 / 通信文側
(差出人名は記載されておらず、宛名の 「太田善右衛門」 は、上野八幡神社の当時の宮司である。)
 

左は、シベリア出兵当時に、日本基督教きりすときょう青年会同盟 (日本YMCA同盟) の軍隊慰問部が制作し、軍へ寄贈した軍事絵葉書 (未使用) である。 絵葉書の宛名側には、軍事郵便を示す青色枠の逆三角形と 「軍事郵便」 の表記、上部中央に 「郵便はがき」 と表示されている。 裏面には、ロシア極東地方と満洲の地図と、その地域に散在する日本基督教青年会同盟の軍隊慰問部の所在地が描かれている。
宛名側 / 絵葉書の描画部側
(画像をクリックすると、絵葉書の描画地図が別ウィンドウに拡大表示される。)


     
    日本基督教青年会同盟 (日本YMCA同盟) は、日露戦争の時、戦場となった満洲 (中国東北地方) に会員を派遣し、軍隊慰問事業を展開した。 軍隊慰問事業とは、宗教団体や在留日本人会などの民間人の団体が戦地で戦線慰問活動をすることである。 軍部は施設の運営には直接関与せず、種々の便宜を施設に対して供与した。 その後、日本基督教青年会同盟は、日本軍のシベリア派兵に応じて軍隊慰問部を設立した。 その当時の事業内容の詳細はわからないが、後年の日支戦争 (1937-45年) 当時に中国戦線に設けられた軍隊慰問の施設では、「紅茶、菓子の接待、竝に無料散髪、全国の新聞、雑誌等を備へつけて縦覧に供して」 いた。 当然のことではあるが、酒飲や婦女子の供応などは無い。

 


大正三年乃至九年戦役従軍記章 (シベリア従軍記章)

 

従軍記章は、戦役・事変に関わった人物を顕彰するために贈られる記章で、軍功の如何や階級に関係なく、また軍人・文民を問わず広く授与された。 第一次大戦の青島攻略に従軍した者に与えられた 「大正三、四年従軍記章」 が、大正9年3月10日に改正され、シベリア出兵や地中海、南洋の海軍作戦参加者にも与えられることになり、これを一括して 「大正三年乃至九年従軍記章」 が制定された。 この従軍記章は 「シベリア従軍記章」 などとも呼ばれる。

章は銅製、円形径1寸 (30 mm) で、表側には、菊花御紋章の下に陸軍聯隊旗と海軍軍艦旗、桐樹の花枝の図が配されている。 章の裏側には、「大正三年乃至九年戦役」 の文字が浮き彫りにされている。 章のみの重さは約15.8グラム。 鈕は銅製、飾版に 「従軍記章」と刻まれている。 綬の幅は1寸2分 (36 mm)、左右は紺青色、中央は白色。

 


 
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第一次大戦 (1914年7月28日〜1918年11月11日) 後のパリ講和会議 (1919年1月18日〜20年の8月10日) において、1919年3月に、会議の主要国である英国、フランス 、イタリア、日本そしてアメリカの間で大戦勝利記念の国際表章についての決議が行われた。 これは、大戦の連合国軍総司令官であったフランスのフェルディナン・フォッシュ元帥 Ferdinand Foch, 1851-1929 の提言によるもので、大戦に参加した全ての連合国が、従軍者のうち特に戦闘員に対して与える戦勝記念章であり、記章自体の意匠は各国によって異なるものの、同じ模様の綬を用いることとされた。

 

文明擁護之大戦 戦捷記章

 

日本では、大正9年 (1920年) 9月17日の 「戦捷記章令 (大正9年勅令第406号)」 によって、大正三年乃至九年戦役の同盟及び連合国勝利記念の国際表章として 「戦捷記章」 が制定された。

章は錆色を付けた青銅製、円形径1寸2分 (36 mm) で、表側は無地に武甍槌神 (たけみかづちのかみ) の像。 裏側は中央に桜花、その芯に地球が描かれ、桜花の5枚の弁にそれぞれ 「日」 「米」 「英」 「佛」 「伊」 の文字を配した各国旗、その5弁の文字と併せて、「文明擁護之大戦 日米英佛伊 其他 同盟及聯合國 自大正三年 至大正九年」 の刻銘が入る。 綬の幅は1寸2分 (36mm)、綬の中心は赤、左右対称に虹色で、両縁は白線。

銘にあるように、この戦捷記章は、大正3年 (1914年) 8月23日〜大正9年 (1920年) 1月9日の間に、戦役に関係する軍務に従事し顕著な功績を挙げた戦闘員に授与されるものであり (概ね70万個製造 = Médaille interalliée 1914-1918 - Wikipédia)、シベリア派遣軍の将兵も、その対象になっていた。 すなわち、ここでは 「シベリア出兵」 は戦捷 (勝ちいくさ) であったとされている。

 


 
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《解 説》 シベリア争乱、1918−1920年 /
チェコスロヴァキア軍団事件 / シベリア出兵 / 極東共和国

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