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ロシア革命の貨幣史 (問わず語り) 郵便切手・傑作選
第一次大戦/ドイツ軍占領下ポーランド・ワルシャワ市の臨時切手

 

ワルシャワ市の都市郵便切手、1915〜16年

Znaczki poczty miejskiej Warszawy, 1915-16 r.

 

1569年に複合君主国家として成立したポーランド・リトアニア共和国 (正式な名称は 「ポーランド王国およびリトアニア大公国 Królestwo Polskie i Wielkie Księstwo Litewskie」) はヨーロッパ有数の大国であったが、17世紀中頃以後衰退を続け、最終的にはその領土を近隣の3つの大国、ロシア、プロイセンおよびオーストリアによって分割されて1795年に地図上から消滅した。 ワルシャワは、1611年以降ポーランド・リトアニア共和国の首都であったが、1795年の三度目のポーランド分割でプロイセン領に組み込まれ、その後、ナポレオン・ボナパルトによって征服されたプロイセン王国の領土割譲で成立したワルシャワ公国を経て、ナポレオン失脚にともないワルシャワ市を含むワルシャワ公国の大部分はロシア帝国の版図に組み込まれた。

ロシア領ポーランドの郵便事業はロシア帝国の郵政当局によって運営されていた。 1914年に第一次大戦が勃発すると、ロシア領ポーランドはドイツ軍とオーストリア・ハンガリー軍に占領された。 ドイツ軍に占領された地域ではドイツの郵便切手に 「Russisch-Polen (ロシア領ポーランド)」 と加刷された切手が使用され、オーストリアに占領された地域ではオーストリア・ハンガリーの野戦切手が発行された。 しかし、この激動の時代に、正規の郵便業務を運営したり維持したりすることは非常に困難であった。 そのため、地域的な郵便局を設立するための発議が 「首都ワルシャワ市市民委員会 "Komitet Obywatelski miasta stołecznego Warszawy (K.O.m.st.W.)"」 から出され、1915年9月23日にワルシャワ市中での正規の郵便を配信するための郵便局を設立することがドイツ郵政当局から首都ワルシャワ市市民委員会に許可された。 そこでは旧来のロシアの郵便局が継続されるとともに、ドイツ帝国郵便 Deutschen Reichspost が拡張されることになった。

ドイツ軍に占領された地区での郵便網はドイツの管理下に置かれ、通信文を含む葉書や書状には検閲印が押された。 一部、地方の郵便事業を民間の手に委ねたいわゆる地域郵便制度もあり、専用の切手も発行された。 これらの切手は軍事郵便用ではなく、原則として、占領地区に居住する被占領側の住民が占領地区内および外国へ宛てる郵便用であり、占領者であるドイツ人も使用した。

ワルシャワ市民委員会の郵便事業では、書状や葉書の郵便料金が5グロシュに決められ、そのため、5および10グロシュの2種類の額面の切手が製造された。

1918年までは、補助貨幣単位グロシュ grosz は貨幣単位ズウォティ złoty の 1/30 で、ロシアの補助通貨単位1コペイカの 1/2 に相当した。

5グロシュ切手と10グロシュ切手には、それぞれポーランドの画家エドワルド・トロヤノフスキー Edward Trojanowski, 1873-1930 の作によるワルシャワ市の紋章 「セイレネス(海の妖精)Warszawska Syrenka」 と 「ポーランドの鷲」 の紋章が用いられ、それぞれの額面額と年号の 「1915」 および首都ワルシャワ市市民委員会 (Komitet Obywatelski miasta stołecznego Warszawy) の略号 「K.O.M.W.」 が配置されている。

最初に発行されたこれら2種類の切手は色調が類似しており、使用上混乱を来たす恐れがあることから、すぐに発行が中止され、図柄を変えずに、色調のみが変えられた切手が発行された。


左: 5グロシュ切手、右: 10グロシュ切手 (消印は1915年11月10日)

しかし、この時期、ポーランドではまだロシアの通貨が流通しており、5グロシュはロシア通貨の2.5コペイカであったが、1915年当時のワルシャワ市内で1/2コペイカを単位とする貨幣を見つけることは困難であった。

ロシア帝国の領域内では、1コペイカ以下の通貨として、額面1/2コペイカと1/4コペイカの銅貨が流通していたが、大戦が勃発すると、物価の高騰や、金属貨幣の隠匿などのため、これらの低額面の通貨は流通市場から姿を消していた。

ドイツ軍とオーストリア・ハンガリー軍に占領されたロシア領ポーランドでは、従来のロシア通貨 ( (1ズウォティ=15コペイカ=30グロシュ) のほか、ドイツ通貨 (マルク/ペニヒ) 、ドイツ軍の東部総司令部が本国政府とドイツ帝国銀行の了解のもとに開設した 「東部商工銀行 Ostbank für Handel und Gewerbe」 の発行による東部総司令部管区内通用の通貨 (オスト・ルーブル/オスト・コペイカ) およびオーストリア・ハンガリーの通貨 (クローネ/ヘラー) が流通していた。 しかし、一般市民の間では、ドイツ通貨による支払は換算率 (第一次大戦勃発によって金兌換が停止される前は1ルーブル=2.1601マルク) の関係で不便であった。

そのため、郵政当局は郵便料金を5グロシュから6グロシュ (すなわち、ロシアの当時の国内郵便料金3コペイカと同額) に変更した。それに伴って10グロシュ切手は印刷物の郵便料金である2グロシュに、5グロシュ切手は書状や葉書用の6グロシュに変更され、それぞれの新しい額面額が旧額面の上に加刷されて使用された。


左: 2グロシュ切手 (消印は1915年11月25日)、右: 6グロシュ切手 (消印は1915年11月23日)

その後、1916年2月2日には、加刷の表記形態が変更されている。


左: 2グロシュ切手、中: 6グロシュ切手 (ワルシャワ市の紋章 「セイレネス」 タイプの消印)、
右: (日付タイプの消印 = 1916年6月14日)


3グロシュ切手として使用された6グロシュ切手の半切 (バイセクト)
 

「セイレネス」 タイプの消印 ― 左: 10グロシュ切手、右: 2連の6グロシュ切手

ワルシャワ市の都市郵便切手は、1916年10月27日にその製造・発行が停止された。

(2015.01.01)  


 

ポーランド軍団の軍事郵便切手

ロシア帝国の版図にあったポーランドでは、多くのポーランド人がロシア軍の将兵として徴集されていた。 1914年7月30日 (露暦7月17日) に総動員令を発令したロシア帝国はその3日後ドイツに宣戦布告して第一次大戦に参入するが、この頃、オーストリア・ハンガリーに対抗するためにロシア各地に配属されていたポーランド出身の将兵による 「ポーランド軍団」 設立の構想が生まれた。 1915年5月に第一ポーランド部隊と2つのポーランド槍騎兵中隊が西部戦線へ配置され、1916年9月にはロシア軍のポーランド出身の将校や兵士によるポーランド歩兵旅団が編成された。 その旅団は1917年1月〜2月に第一ポーランド歩兵師団に拡充され、2つの槍騎兵中隊はポーランド槍騎兵大隊に統合された (1917年5月からポーランド槍騎兵連隊)。

1917年7月24日、第一ポーランド歩兵師団を基幹とした 「第一ポーランド軍団 Первый польский корпус, Pierwszy Korpus Polski」 がベラルーシで設立された。 軍団は、北部および西部戦線 (ベラルーシ、西南ロシア、リトアニア、ラトヴィア) に配属されていたポーランド出身のロシア軍兵士によって漸次補充されて、その兵員は1918年1月中頃に2万9000、同年5月には23,661を数えた。

第一ポーランド軍団は、ロシアの郵便切手に加刷した軍事郵便切手を1918年にベラルーシで発行している。 切手は異なる加刷で2種類が発行された。 第一次発行の切手には、切手の上部に «POCZTA» の文字、切手中央のロシア帝国の双頭の鷲の上に 「ポーランドの鷲」 の図、下部に «Pol. Korp.» の文字が加刷されており、額面は元の切手の額面のままであった。 第二次発行の切手には、切手の上部に «Pol. Korp.» の文字、中央にロシア帝国の双頭の鷲の上に 「ポーランドの鷲」 の図、下部に新しい額面が加刷されている。

上段:第一次発行切手

下段:第二次発行切手

(2015.01.01)  


 

オーストリア軍隷下のポーランド軍団の軍事郵便切手

このころ、ポーランド南部の都市クラクフを中心とする地域はオーストリアの版図にあった。 1914年には、後にポーランド共和国の国家元首となるユゼフ・ピウスツキ Józef Klemens Piłsudski, 1867-1935 の私兵集団から発展したポーランド軍団がオーストリア軍の一部隊として編成されている。


オーストリア軍隷下のポーランド軍団の軍事郵便切手

(2020.06.17)  


 

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