帝政ロシアの通貨事情

 

 

18世紀の貨幣流通

 

18世紀初頭におけるピョートル大帝の幣制改革によって、ロシアの貨幣制度は近代化した。 そして、ルーブル銀貨とコペイカ銅貨が貨幣制度の基本となった。


 

重量単位と貨幣の品位
ロシアでは1899年6月4日にメートル法が公式に採用されたが、一般には十月革命後まで 旧来の度量衡が併用されていた。 特に貨幣で関係の深い重量単位については次のようになっている。

 

 1プード пуд

= 40フント

= 16,380グラム

 

 

 1フント фунт

= 96ゾロトニク

=  409.5グラム

 

 

 1ゾロトニク золотник

= 96ドーリャ

=  4.266グラム

 

 

 1ドーリャ доля

 

=  0.0444349グラム

 

また、貨幣など貴金属合金の品位の表示もメートル法施行以前にはゾロトニク法品位が用いられていた。 これは合金1フント (96ゾロトニク) 当りに含まれる貴金属の純分をゾロトニクの重量比で表したものであり、 純粋な貴金属では品位96となる。

貨幣のイラスト図版は V.I.Petrov "Catalogue des monnaies russes" 1899 (リプリント版 1964) より転載した。 また、貨幣の量目、品位、純金量の推移データは В.В. Уздеников "М ОНЕТЫ РОССИИ. 1700-1917" 1985 より引用した。

 

 

 

ピョートル一世 (大帝)以降、18世紀には、5人の皇帝と4人の女帝が交互に在位した。
 

 
   

1682〜1725年

ピョートル一世 (大帝) Пётр I Алексеевич, 1671−1725

 
 

1725〜1727年

エカテリーナ一世 Екатерина I Алексеевна, 1684−1727

 
 

1727〜1730年

ピョートル二世 Пётр II Алексеевич, 1715−1730

 
 

1730〜1740年

アンナ Анна Иоанновна (Анна Ивановна), 1693−1740

 
 

1740〜1741年

イヴァン六世 Иван VI (Иоанн Антонович), 1740−1764

 
 

1741〜1761年

エリザヴェータ Елизавета Петровна, 1709−1762

 
 

1761〜1762年

ピョートル三世 Пётр III Фёдорович, 1728−1762

 
 

1762〜1796年

エカテリーナ二世 (大帝) Екатерина II Алексеевна, 1729−1796

 
 

1796〜1801年

パーヴェル一世 Павел I Петрович, 1754−1801

 

 

 

金貨幣

チェルヴォネツ金貨

「チェルヴォネツ червонец」 とは、元来は外国の金貨、主にオランダのダカット (ドゥカート Ducat) 金貨のロシアでの名称であった。 かつて、東スラヴの地ではダカット金貨は 「くれない色の金 червонное золото」 と呼ばれていたが、これは、高品質の金は 「微妙に赤味がかった金色 золотистый с красноватым оттенком 」 をしていることに由来する。

ダカット金貨 (量目3.47グラム 品位986) の規格に準拠した最初のチェルヴォネツ金貨が発行されたのはピョートル一世の治世、1701年のことである。 それ以前にもロシアで金貨が発行されていたが、それらは褒賞用として作られたもので、通貨ではなかった。 このピョートル一世の時代から、チェルヴォネツ金貨は貿易に使用されることになり、ロシアの貨幣制度で重要な位置を占めるようになった。 チェルヴォネツ金貨には額面価格がなく、価格は金の時価の変動に左右された。

  • 1701年にチェルヴォネツ金貨 (3.45グラム、1000分の970) が発行され、1714年には2チェルヴォネツ金貨がこれにつづいた。

  • ピョートル一世治下、1712年1月25日の元老院令で 「品位94 1/10の金1フントから118〜119個のチェルヴォネツ金貨 (あるいは59個の2チェルヴォネツ金貨)」 を製造するものとされた。

  • アンナ女帝治下、1730年12月23日の勅令で 「品位93 (96分中) の金1フント (409.5グラム) から118個のチェルヴォネツ金貨」 を製造するものとされた。

  • エリザヴェータ女帝治下、1749年7月7日の勅令で 「品位94 2/3 (96分中) の金1フント (409.5グラム) から118個のチェルヴォネツ金貨」 を製造するものとされた。 (1749年および1751年、2チェルヴォネツ金貨の発行)

  • エカテリーナ二世治下、1797年7月7日の布告で 「品位94 2/3 (96分中) の金1フント (409.5グラム) から117 1/2個のチェルヴォネツ金貨」 を製造するものとされた (ピョートル二世治下に若干落とされた品位を元に戻した)。

ルーブル金貨

1718年に発行されたロシアで最初の2ルーブル金貨は、品位75 (1000分の781)、貨幣の量目4.10グラム (純金量3.20グラム) で、チェルヴォネツ金貨よりも低品位である。

  • ピョートル一世治下、1718年2月14日の勅令で、「品位75 (96分中) の金1フント (409.5グラム) から100個の2ルーブル金貨」 を製造するものとされた。

  • エリザヴェータ女帝治下、1755年11月12日の勅令で 「10ルーブル金貨の量目は、品位88 (96分中) の金3ゾロトニク85ドーリャ」、「5ルーブル金貨の量目は、品位88の金1ゾロトニク90ドーリャ」 とされた。

  • 宮廷貨幣   è  宮廷貨幣 ― ポルチーナ金貨」
    エリザヴェータ女帝治下、1756年6月21日の勅令で、宮廷で使用するための 「品位88 (96分中) の金73ドーリャの2ルーブル金貨および品位88の金36ドーリャの1ルーブル金貨」 を製造するものとされた。 当時ロシアの宮廷内で流行っていたトランプ賭博の支払い用として製造された金貨で、賄賂や、他のいかがわしい取引の際の支払い用としても使用されたと言われている。 宮廷貨幣は一般流通用の金貨よりも幾分軽量で、一般用の10ルーブル金貨が量目16.57グラム、品位88/96(従って1ルーブル当りの純金量は1.519グラム)であったのに対して、宮廷用の1ルーブル金貨は量目1.60グラム、品位88/96(従って1ルーブル当りの純金量は1.467グラム)であった。 宮廷貨幣は1756年以外にも製造されたが、その重量などは一様ではない。

  • エカテリーナ二世治下、1764年3月30日の勅令で 「10ルーブル金貨の量目は、品位88 (96分中) の金3 3/44ゾロトニク」、「5ルーブル金貨の量目は、品位88の金1 47/88ゾロトニク」 とされた。

  • パーヴェル一世治下、1797年10月3日の布告で 「5ルーブル金貨は、品位94 2/3 (96分中) の金1フント (409.5グラム) から336ルーブル59 7/27コペイカ」 を製造するものとされた。

 

金貨の量目、品位、純金量の推移

チェルヴォネツ金貨

 

 

量目

品位

純金量

 

 

1701-1711

a

3.47g

93 (969)

3.36g

 

 

1712-1729

b

3.47g

94 1/10 (980)

3.4g

 

 

1730-1748

c

3.47g

93 (969)

3.36g

 

 

1749-1756

d

3.47g

94 2/3 (986)

3.42g

 

 

1757-1796

e

3.47g

94 (979)

3.39g

 

 

1796-1797

f

3.49g

94 2/3 (986)

3.44g

 

 
1金ルーブル当り

 

 

量目

品位

純金量

 

 

1718-1728

a

2.05g

75 (781)

1.60g

 

 

1755-1763

b

1.66g

88 (917)

1.52g

 

 

1756-1758

b*

(宮廷貨幣) 1.61g

88 (917)

1.47g

 

 

1764-1797

c

1.31g

88 (917)

1.20g

 

 

1798-1816

d

1.22g

94 2/3 (986)

1.20g

 

 

 

 
註:ゾロトニク法品位は96分中、メートル法品位(括弧内) は1000分中の純金の割合を表わす。

 

金貨の量目 (上段) と純金量 (下段) の推移


1チェルヴォネツ金貨 : 1742年、エリザヴェータ女帝治下
 
(左) 10ルーブル金貨、(右) 1ルーブル金貨 (宮廷貨幣) : 1758年、エリザヴェータ女帝治下

 

銀貨幣 (ルーブル銀貨) および高額面補助銀貨

1ルーブルの価値の完全な実体を有する最初のルーブル銀貨は、1704年に製造された。 そして、それに先立つ1701年に、ルーブル銀貨の1/2および1/4に相当するポルチーナ (50コペイカ) 銀貨、ポルポルチンニク (25コペイカ) 銀貨の製造がはじまった。 ポルチーナ銀貨およびポルポルチンニク銀貨は、ルーブル銀貨の1/2および1/4の純銀量を含有しており、それぞれの銀貨に含まれる純銀分の価格は名目価格に等しかった。

ポルチーナ полтина 、ポルポルチンニク полуполтинник は、それぞれ半ルーブル、四半ルーブルの意味である ( ロシア語で 「ポル пол-/полу-」 は 「半分」 の意味)。 これらの額面額は、実際の貨幣を1/2、1/4に分割して用いていた秤量貨幣(ひょうりょうかへい) の名残か...

  • ピョートル一世治下、1718年1月24日および2月14日の勅令で 「品位70 (96分中) の銀1フント (409.5グラム) から14ルーブル40コペイカのルーブル、ポルチーナおよびグリヴェンニク」 を製造するものとされた。

  • アンナ女帝治下、1730年4月15日の元老院令で 「品位70 (96分中) の銀1フント (409.5グラム) から14ルーブル40コペイカのルーブルおよびポルポルチンニク」 を製造するものとされた。

  • アンナ女帝治下、1731年1月22日の元老院令および3月23日の勅令で 「品位77 (96分中) の銀1フント (409.5グラム) から15ルーブル84コペイカのルーブル、ポルチーナ、ポルポルチンニクおよびグリヴェンニク」 を製造するものとされた。

  • エカテリーナ二世治下、1762年1月17日の勅令で 「品位72 (96分中) の銀1フント (409.5グラム) から19ルーブル75 25/81コペイカのルーブル、ポルチーナ」 を製造するものとされた。

  • パーヴェル一世治下、1797年1月20日の布告で 「全ての額面の銀貨は、品位83 1/3 (96分中) の銀1フント (409.5グラム) から14ルーブル」 を製造するものとされた。 (アルベルト・ルーブル)

  • パーヴェル一世治下、1797年10月3日の布告で 「全ての額面の銀貨は、品位83 1/3 (96分中) の銀1フント (409.5グラム) から17ルーブル6 2/3コペイカ」 を製造するものとされた。

18世紀のロシアにおける銀貨の量目、品位、純銀量は次のように推移した。

1銀ルーブルの量目、品位、純銀量の推移

 

 

量目

品位

純銀量

 

 

1699-1707

a

28.44g

84

(875)

24.89g

 

 

1707-1710

b

28.44g

77

(802)

22.75g

 

 

1710-1712

c

28.44g

72

(750)

21.33g

 

 

1712-1718

d

28.44g

58

(604)

17.06g

 

 

1718-1730

e

28.44g

70

(729)

20.73g

 

 

1731-1761

f

25.88g

77

(802)

20.73g

 

 

1762-1796

g

24.00g

72

(750)

18.00g

 

 

1796-1797

h

29.25g

83 1/3

(868)

25.39g

 

 

1798-1885

i

20.73g

83 1/3

(868)

18.00g

 

 

 

 
註:ゾロトニク法品位は96分中、メートル法品位 (括弧内) は1000分中の純銀の割合を表わす。

 

銀貨の量目 (上段) と純銀量 (下段) の推移

 


1ルーブル銀貨 : 1725年、エカテリーナ一世治下

1ルーブル銀貨 : 1768年、エカテリーナ二世治下

1ルーブル銀貨 (アルベルト・ルーブル) : 1796年、パーヴェル一世治下

 

低額面補助銀貨

比較的低額面の補助銀貨として、グリヴェンニク (10コペイカ) およびその1/2の10ヂェンガ (5コペイカ) の額面の銀貨の製造は、1701年に始まった。 1704年には、アルティン (3コペイカ) 銀貨の製造が行なわれている。 1760年になると、20コペイカおよび15コペイカの額面の銀貨の製造が始まった。

1710年〜1712年、1718年〜1730年および1797年〜1859年の間は、これらの低額面銀貨に含まれる純銀分の価格は、ルーブル銀貨を基準にした場合の名目価格に等しかったが、それ以外の期間では一定ではなかった (1860年以降は漸次減価し、1867年以降には、その1ルーブル分の銀含有量はルーブル銀貨の半分になった)。 低額面補助銀貨は、その枚数によって交換価値を計る計数貨幣であり、貨幣の実体価値とは関係なく、信用貨幣としての性質を持っていた。

  • 1713〜14年には、円形の新しい様式のコペイカ銀貨が少量発行された。 このコペイカ銀貨は、0.6グラムほどの重さがあるが、その銀品位は38/96 と低いものであった。 このコペイカ銀貨の製造に伴って、比較的低額面のアルティン銀貨 (1.7グラム) と5コペイカ銀貨 (2.83グラム) も品位を従来の半分に (77/96 から 38/96 へ) 落して、サイズを大きくしたものが発行された。

  • ピョートル一世治下、1718年1月24日および2月14日の勅令で 「品位38 (96分中) の銀1ゾロトニク (4.266グラム) から7 51/96コペイカのアルティンおよびコペイカ銀貨」 を製造するものとされた。
    この時期、 「品位70 (96分中) の銀1フント (409.5グラム) から14ルーブル40コペイカのルーブル、ポルチーナおよびグリヴェンニク」 を製造するものとされており、アルティンおよびコペイカ銀貨は、ルーブル銀貨を基準にした場合の名目価格よりも若干低くなっている。

  • エリザヴェータ女帝治下、1741年6月10日の勅令で 「品位72/96の銀1フントから15ルーブル84コペイカのグリヴェンニク銀貨」 を製造するものとされた。

  • エリザヴェータ女帝治下、1746年3月23日の元老院令で 「品位77/96の銀1フントから16ルーブル94コペイカのグリヴェンニク銀貨」 を製造するものとされた。

  • エリザヴェータ女帝治下、1755年5月25日の元老院令で 「品位77/96の銀1フントから16ルーブル94コペイカのポルポルチンニク銀貨および5コペイカ銀貨」 を製造するものとされた。

  • エカテリーナ二世治下、1764年3月30日の勅令で 「品位72/96の銀1フントから17ルーブル25 40/96コペイカのポルポルチンニク銀貨および20コペイカ銀貨」 を製造するものとされた。

  • パーヴェル一世治下、1797年1月20日の布告で 「品位83 1/3の銀1フントから14ルーブルの全ての額面の銀貨」 を製造するものとされた。

  • パーヴェル一世治下、1797年10月3日の布告で 「品位83 1/3の銀1フントから17ルーブル6 2/3コペイカの全ての額面の銀貨」 を製造するものとされた。

補助銀貨1ルーブル当りの量目、品位、純銀量の推移

 

 

量目

品位

純銀量

 

 

1701-1706

a

28.44g

77

(802)

22.75g

 

 

1707-1710

b

28.44g

84

(875)

24.89g

 

 

1711-1713

c

28.44g

72

(750)

21.33g

 

 

1713-1718

d

56.71g

38

(396)

22.44g

 

 

1718-1725

e

28.44g

70

(729)

20.73g

 

 

1726-1730

f

26.59g

42

(437.5)

11.63g

 

 

1731-1740

g

25.85g

77

(802)

20.71g

 

 

1741-1745

h

25.85g

72

(750)

19.37g

 

 

1746-1763

ih

24.17g

77

(802)

19.37g

 

 

1764-1796

j

23.80g

72

(750)

17.85g

 

 

1797

k

29.25g

83 1/3

(868)

25.39g

 

 

1798-1810

l

20.73g

83 1/3

(868)

18.00g

 

 

 

 
註:ゾロトニク法品位は96分中、メートル法品位は1000分中の純銀の割合を表わす。

 

補助銀貨1ルーブル当りの量目 (上段) と純銀量 (下段) の推移

 

 
5コペイカ銀貨 : (左) 1740年、アンナ女帝治下。 (右) 1800年、パーヴェル一世治下

 

銅貨

ピョートル一世 (大帝) は、流通過程での深刻な 「小銭 мелочи」 不足に対処するため、コペイカよりも低額面の貨幣の発行に着手した。 1700年に機械で製造された円形のヂェンガ (1/2コペイカ) 銅貨、ポルーシカ (1/4コペイカ) 銅貨、ポルポルーシカ (1/8コペイカ) 銅貨の流通が開始された。 補助貨幣の基本であったコペイカ銅貨の製造は1704年に始まったが、1718年に中止された。 コペイカ銅貨の発行が再開されるのは、ピョートル二世治世の1728年のことになる。 1700年には、1プード (16,380グラム) の銅から12.8ルーブル分の銅貨が製造されたが、この数量は1702年には15.4ルーブル分にまで増え (銅貨の軽量化)、1704年には20ルーブル分、1718年からは1プードで40ルーブル相当の銅貨が製造された。

一方、比較的高額面の銅貨が最初に製造された年は、10コペイカ銅貨が1762年、5コペイカ銅貨が1723年、4コペイカ銅貨が1762年、2コペイカ銅貨が1757年となっている (ただし、ルーブル、ポルチーナ、ポルポルチーナ、グリヴナ (10コペイカ)、5コペイカ、コペイカの各額面の 「銅板貨幣」 が1726年に製造されている)。

  • ピョートル一世治下、1699年10月25日の勅令で 「銅1プードから12ルーブル80コペイカのヂェンガ、ポルーシカおよびポルポルーシカの各銅貨」 を製造するものとされた。

  • 1701年1月12日の勅令で 「銅1プードから15ルーブル44コペイカのヂェンガ、ポルーシカの各銅貨」 が製造されるものとされた。

  • 1704年1月28日の勅令で 「銅1プードから19ルーブル20コペイカの全額面の銅貨 (コペイカ、ヂェンガ、ポルーシカおよびポルポルーシカ)」 が製造されるものとされた。

  • 1713年7月3日の元老院令で 「銅1プードから20ルーブルの全額面の銅貨 (コペイカ、ヂェンガ、ポルーシカ)」 が製造されるものとされた。

  • 1718年1月24日の勅令で 「銅1プードから40ルーブルのポルーシカ銅貨」 が製造されるものとされた。

  • 1723年6月28日の勅令で 「銅1プードから40ルーブルの5コペイカ銅貨」 が製造されるものとされた。

  • 1724年1月31日の元老院令で 「銅1プードから20ルーブルのコペイカ銅貨」 が製造されるものとされた。

  • 銅板貨幣
    エカテリーナ一世治下、1726年2月4日の元老院令で 「銅1プードから10ルーブルのルーブル、ポルチーナ、ポルポルチーナおよびグリヴナの各銅貨」 を製造するものとされた。 これらの貨幣の形状は、円形ではなく、正方形であった。

  • ピョートル二世治下、1728年2月7日の枢密院令で 「銅1プードから40ルーブルのコペイカ銅貨」 を製造するものとされた。

  • アンナ女帝治下、1730年12月22日の勅令で 「銅1プードから10ルーブルのヂェンガ、ポルーシカの各銅貨」 を製造するものとされた。

  • アンナ女帝治下、1731年1月25日の元老院令で 「銅1プードから8ルーブルのコペイカ銅貨」 を製造するものとされた。

  • エリザヴェータ女帝治下、1755年8月18日の勅令で 「銅1プードから8ルーブルのコペイカ銅貨」 を製造するものとされた。

  • エリザヴェータ女帝治下、1757年4月8日の勅令で 「銅1プードから16ルーブルの2コペイカ、コペイカ、ヂェンガ、ポルーシカの各銅貨」 を製造するものとされた。

  • エリザヴェータ女帝治下、1758年1月14日の勅令で 「銅1プードから16ルーブルの5コペイカ銅貨」 を製造するものとされた。

  • ピョートル三世治下、1762年1月17日の勅令で 「銅1プードから32ルーブルの全ての額面の銅貨 (10コペイカ、4コペイカ、2コペイカ、コペイカ、ヂェンガ)」 を製造するものとされた。

  • エカテリーナ二世治下、1763年1月27日の元老院令で 「銅1プードから16ルーブルの全ての額面の銅貨 (2コペイカ、コペイカ、ヂェンガ)」 を製造するものとされた。

  • シベリア貨幣
    エカテリーナ二世治下、シベリアの貨幣流通で使用するため、ポルーシカ (1/4コペイカ)、ヂェンガ (1/2コペイカ)、1、2、5および10コペイカの額面の銅貨が、1763年12月5日から1781年6月7日の間に製造された。 1763年12月5日の勅令で 「銅1プードから25ルーブルの全ての額面のシベリア貨幣」 を製造するものとされた。

  • セストロレツク・ルーブル
    エカテリーナ二世治下、アシグナーツィア紙幣の銅兌換保証のため、1770年2月16日の布告で 「銅1プードから16ルーブルのルーブル銅貨 (セストロレツク・ルーブル)」 を製造するものとされた。 (1銅ルーブルは純銅1/16プード=1,049グラム)

  • エカテリーナ二世治下、1796年5月8日のP.ズボヴの裁可上申布告で 「銅1プードから32ルーブルの全ての額面の銅貨 (4コペイカ、2コペイカ、コペイカ、ヂェンガ、ポルーシカ)」 を製造するものとされた。

  • パーヴェル一世治下、1797年1月20日の布告で 「銅1プードから16ルーブルの全ての額面の銅貨 (2コペイカ、コペイカ、ヂェンガ、ポルーシカ)」 を製造するものとされた。

銅貨1ルーブル当りの量目の推移

 

 

1ルーブル当りの量目

銅1プード当りルーブル

 

 

 

1700-1702

a

1280g

12ルーブル80コペイカ

 

 

 

1702-1704

b

1060g

15ルーブル44コペイカ

 

 

 

1704-1718

c

819g

19ルーブル20コペイカ

 

 

 

1718-1730

d

410g

40ルーブル

 

 

 

1725-1727

e

(銅板貨幣) 1638g

10ルーブル

 

 

 

1730-1754

f

1638g

10ルーブル

 

 

 

1755-1757

g

2048g

8ルーブル

 

 

 

1757-1761

h

1024g

16ルーブル

 

 

 

1762

i

512g

32ルーブル

 

 

 

1763-1796

j

1024g

16ルーブル

 

 

 

1764-1781

k

(シベリア貨幣) 655g

25ルーブル

 

 

 

1770-1771

l

(セストロレツク) 1024g

16ルーブル

 

 

 

1796

m

512g

32ルーブル

 

 

 

1797-1810

n

1024g

16ルーブル

 

 

 

銅貨1ルーブル当りの量目の推移


5コペイカ銅貨 (銅板貨幣) : 1726年、エカテリーナ一世治下

5コペイカ銅貨 (シベリア貨幣) : 1767年、エカテリーナ二世治下


5コペイカ銅貨 : 1781年、エカテリーナ二世治下

 

紙幣

1769年〜19世紀の中頃までは、「アシグナーツィア」 と名付けられた紙幣が流通していた。 アシグナーツィア紙幣は、当初は銅貨と、後に銀貨と兌換されることになっていたが、度重なる戦争の戦費調達のために増発を繰り返し、兌換が停止されて、その価値は下落し続けた。

帝政ロシアの紙幣の詳細については、次へ進まれたい。

è帝政ロシアの紙幣

 


 

ロシア貨幣の呼称・俗称については、次を参照されたい。

è  ロシア貨幣の用語集

 


ピョートル大帝の幣制改革      19世紀の貨幣流通

 

はじめに / ピョートル大帝の幣制改革 / 18世紀の貨幣流通 /
19世紀の貨幣流通 / 帝政ロシアの紙幣
/ ドストエフスキーの世界

ロシア革命の貨幣史