帝政ロシアの通貨事情

 

 

ピョートル大帝の幣制改革

 

Пётр Великий 後に 「大帝 Великий」 と呼ばれることになるロシアの皇帝 ピョートル一世 Пётр I Алексеевич, 1682−1725 は、ロシアの近代化に向っての様々な改革を断行し、軍事配備、軍隊の再装備、艦隊の創設、運河や港湾の建設、大量な物資の外国からの買付け、外国人専門家の招聘、ロシア人の国外への研修派遣など、数々の国家事業を行なったが、 それらに対する膨大な出費のため、ロシア国家の財政は緊迫した。 このような国家財政を救済するために、ピョートルは十進法に基づく新しい貨幣制度を制定した。

ピョートルの貨幣制度改革は、他の諸改革と同様に、西欧にその範を求め、ルーブル銀貨とコペイカ銅貨を基本として、ピョートル自らが 「古いしらみ старые вши」 と呼んだ針金状の銀塊から手造りしていた、旧来からの コペイカ銀貨 (ワイヤ・コペイカ "проволочная" копейка を根絶することを悲願とするものであった。

針金状の銀塊から造られた貨幣は、その外見から、「チェシュヤー чешуя (うろこ)」 または 「チェシューイカ чешуйка (鱗片)」 とも呼ばれている。


 

ピョートルの改革以前

1243年、ヴォルガ下流のサライに都を置いたキプチャク汗国はロシア (ルーシ) の諸公に臣従と貢納を要求し、 ロシアの諸公はキプチャク汗国に隷属した。 これを 「タタールの軛(くびき) Монголо‐татарское иго」 という。 モスクワ大公国のイヴァン三世が独立を宣言して貢納を廃止する1480年までの2世紀半に及ぶ異民族による支配は、西欧や東方との正常な経済関係を断絶させ、ロシアの経済的発展を遅らせることになるが、この 「軛」 も14世紀に入るとかなり緩んできた。 14世紀の後半、ロシア国内の経済活動は再び活発になり、それに伴ってロシアの諸公国では再び自分たちの貨幣 「ヂェンガ денга」 が製造され始めた。

14世紀には、重量1グリヴェンカの銀 (1/2 フント = 48ゾロトニク = 204.75グラム) から200個のヂェンガが製造されていたが、1420年代になると216個 (1個の平均0.94グラム)、15世紀後半には260個 (0.78グラム) になった。

「ヂェンガ денга」 は、18世紀末から деньга と綴られるようになった。

чеканка монет この当時のロシアにおける貨幣の製造技術は極めて独特なものであった。 貨幣を製造するとき、ヨーロッパの国々では、銀塊を打ち延ばして板にし、貨幣の形状に円盤 ― 「円形 (えんぎょう)」 を切り取っていたが、ロシアでは、銀魂をまず引き伸ばして針金状にして、それから必要な重さをもった切片に分け、それを楕円形に打ち延ばして小さな銀板にし、刻印を押して貨幣にしていた。 この方法だと、円形 (えんぎょう) の製造時には避けられない銀屑の再加工という余分な作業がいらないし、貨幣の重さも比較的均一に保つことができる。 このような貨幣の製造法は、ピョートルの幣制改革に至るまでの間、3世紀にわたって続けられた。

 

1534年の改革
Князь Великий Иван 1533年にモスクワ大公のヴァシーリー三世が死去すると、3歳の息子イヴァン・ヴァシリエヴィチが母親エレーナ・グリンスカヤの後見のもとに大公位に就いた。 イヴァン四世 (1533〜47年に大公、1547〜84年に皇帝。 雷帝 Грозный) である。


 
1534年、イヴァン四世とその後見人エレーナ・グリンスカヤのもと、ロシア国家の統一貨幣制度が誕生した。 このことは、かつて割拠していた諸公国がモスクワ公国を中心に統合されてきた長い工程の仕上りを意味するものであった (エレーナ・グリンスカヤの通貨改革 "денежная реформа Елены Глинской" と呼ばれる)。

この年から、新しい全国共通貨幣 「 コペイカ копейка 」 の製造がはじまった。 この貨幣の表面には槍 (コピヨー копьё) を持つ騎士 (聖ゲオルギー・ポベドノーセツ (凱旋者) Святой Георгий-Победоносец ) の像が刻まれていたので、コピヨーのヂェンガ "копейная денга" ― 「コペイカ」 と呼ばれるようになり、それが後に正式な名称になった。 このコペイカ銀貨は、長い間ロシアの貨幣の基準的地位を保っていた 「 ヂェンガ денга 」 の2倍の重さがあった。 また、コペイカ銀貨100個を表す計算単位として、それ以前は銀の重量を表す支払単位であった 「ルーブル рубль」 という語が用いられるようになった。

この時代の 「ルーブル」 は、通貨の勘定単位であって、実体的な貨幣ではない。 昔の日本や中国で、銭 (ぜに) 1000枚 (1000文) を 「貫 (貫文)」 と言い表したことと通じるものがある。

イヴァン四世の時代には、重量1グリヴェンカの銀 (204.75グラム) から300個のコペイカ銀貨が製造されていた (трехрублевая стопа)。 したがって、コペイカ銀貨の重さは0.68グラムであった。 この重量は、およそ一世紀のあいだ維持されていたが、その後は時とともに漸次軽量化され、ミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフ Михаил Фёдорович Романов, 1596−1645 が皇帝に選出された1613年には0.48グラム、ピョートル一世の幣制改革が始まる1698年には0.28グラムとなった。


左:イヴァン四世 (雷帝) 治世当時のコペイカ銀貨 (0.68グラム)
右:ピョートルによって軽量化されたコペイカ銀貨 (0.28グラム)

 

 

 
ロシアでは長年にわたって冶金・金属精錬・加工などの産業基盤が乏しく、そのことが国家の貨幣事業の停滞を引き起こしていた。 17世紀末にはシベリアで銀の採取が始められていたが、年に数プード (1プードは約16kg) といった僅かな量しか生産されなかった。 貨幣素材の銀は、ロシアの物産との交易によって、銀塊や西欧のターレル(ターラー)などの銀貨のかたちでロシア国内に流入してきた。 このターレル銀貨をロシアでは 「イェフィモク Ефимок」 と呼んでいた。

「ターレル(ターラー) Thaler」 の語源は、16世紀初頭、神聖ローマ帝国版図のボヘミア北西部にあったヨーロッパ有数の銀山ザンクト・ヨアヒムスタール Sankt Joachimsthal (チェコ名ではヤーヒモフ Jáchymov) にあるといわれている。 16世紀初頭からこの地で製造された大型の銀貨を 「ヨアヒムスターレル Joachimsthaler」、略して 「ターレル」 と言った。

 

このヨアヒムスターレル(ターレル)は、重量 29.2 グラム、品位937.5/1000、純銀量27.4 グラムで、わずか 45 年の間に約 300 万枚製造され、中央ヨーロッパ中に広まった。 それ以前、1486年にオーストリア大公ジギスムント(Sigismund 1427-96)は 重量31.93グラム (1 オンス) 、品位937.5 のグルデングロッシェン銀貨(グルディナー)Guldengroschen (Guldiner) を発行しており、商取引で広く用いられていたが、 時の経過にともなって、グルディナーの重量は 29.2 グラム (純銀27.4 グラム) にまで減少していた。

その後 17 世紀にかけてターレルはグルディナーに取って代わり、神聖ローマ帝国やドイツ周辺の各地で造られた同様の銀貨も 「ターレル」 と呼称され、 ヨーロッパ各地での商取引の基準貨幣となった。

ターレルの重量や銀純分には、時代によって、また製造地によって、微小な差があった。 西欧と取引しているロシアの商人たちは各国のターレルをよく調査して、品位でのみ、つまりコペイカに造り変えることでの利益性で、それらを値踏みした。 かくして、国境を越えると他国の貨幣は紛れもない未加工の銀素材の形体になってしまい、いかなる他国の貨幣の流通も、ロシアではもはや存在しなかったのである。

17世紀の初めまで、ロシアでは自由造幣の古い権利が保持されていた。 国家が直接に発行する貨幣はとるにたりず、商人が造幣廠へ自分の銀で注文して造らせた貨幣が圧倒的に多かった。 国内の流通貨幣の大部分は、彼らの手を介して流入していったものであった。 国家の造幣廠は貨幣の品質を補償し、税を徴収したが、その税は造幣費用を支弁し国庫へ適度の収入をもたらしていた。

1610年のポーランドおよびスウェーデンの干渉によって貨幣経済が動揺したが、その後、国家は貨幣事業を金融経営の対象として自己の掌中に整理し始め、自由造幣権は次第に制限されていった。
 

 

 

アレクセイ・ミハイロヴィチの改革
1654年の初頭、ロマノフ朝第二代皇帝のアレクセイ・ミハイロヴィチ Алексей Михайлович, 1629-1676 (在位1645-76年) は、旧来のコペイカ銀貨 (公定規格0.48グラム、実重量0.46グラム) を流通に残したまま、それらに加えてルーブル銀貨を発行することを決めた。 これは、1枚50コペイカで商人から買い入れたターレル銀貨 (製造された時代・製造地によって重量 28〜32グラム) に、騎乗の皇帝像と 「ルーブル」 の銘を打刻することでルーブル貨幣に作り変えたものであった。


ルーブル銀貨 (1654年)

表面には騎乗の皇帝像、裏面には双頭の鷲の紋章と、天地創造紀年による年号 「7162年 ҂зрѯв (西暦では1654年 è  発行年の文字表記 )」 および 「ルーブル рубль」 の銘が打たれている。

 

また、ルーブル銀貨のほか、ポルポルチンニク (1/4ルーブル、すなわち25コペイカ) 銀貨も発行された。 それは、4分の1に切断されたターレル銀貨の扇形上に刻印が打たれたものであった。 しかし、これらの銀貨は、実質的にはルーブル銀貨は64コペイカ、ポルポルチンニク銀貨は16コペイカの価値しかなかった。


ターレル銀貨を4分の1に切断して作られたポルポルチンニク (25コペイカ) 銀貨

 

これらの新貨幣と同時に、円形のポルチーナ (50コペイカ) 銅貨も製造し始めた。


ポルチーナ銅貨

 

しかし、この実体価値のないルーブル銀貨を人々が拒否したため、翌1655年には、貨幣制度を旧来のコペイカ銀貨に基づく単一の度量衡へ回帰させた。
そして、「めじるし付きのイェフィモク Ефимок с признаком」 の発行が始まった。 これは、ターレル銀貨に2つの刻印 (騎馬像の円形の刻印と年号の 「1655」 の四角形の刻印) を打刻し、64コペイカの価値を持つロシア貨幣であると公認したものである。 かくして、このイェフィモクからは64個のコペイカ銀貨 (1655年当時のコペイカ銀貨は公定規格0.48グラム、実重量は0.46グラム) を造ることができたことから、「めじるし付きのイェフィモク」 はもはや公定規格通りの (完全な実体価値を持った) ロシア貨幣となったのである。


ターレル銀貨に刻印を押した 「めじるし付きのイェフィモク」

 

1655年の1年間に、80万〜100万個のイェフィモクが発行され、流通過程に留まっていた1654年のルーブル銀貨は、イェフィモクと同一価値と見なされることになった。 ターレル銀貨への刻印の打刻は1655年中あるいは1656年初頭に中止されたが、1659年初頭までは 「めじるし付きのイェフィモク」 の流通は禁止されなかった。

 

コペイカ銅貨の発行と銅貨一揆
1654年、ロシアはウクライナをめぐってポーランドと交戦状態に入り、スウェーデンとも緊張関係に陥った。 この戦争によって、ロシアの国家財政は逼迫し、国民生活は困窮した。 戦費調達の行き詰まりと銀素材としての外国銀貨の流入減少のため、1655年末、政府はコペイカ銅貨の発行を始めた。 コペイカ銅貨は1プード (16,380グラム) の銅から4万個 (400ルーブル分) が製造された。 コペイカ銅貨1枚は、およそ0.41グラムであったことになる(この時期に製造されたコペイカ銀貨は公定規格0.48グラム、実重量0.46グラムほどであった)。

このとき、コペイカ銀貨の製造は継続されており、流通も従来のままであった。 しかも、新しく製造されることになった銅貨とコペイカ銀貨は、外観上での区別がつかず、その価値も同等とされた。 この幣制改革の立案者たちは、他国での銅貨の流通についての表面的な知識だけを持っており、全能なる皇帝という単純・愚直な 「説 (セオリー)」 を拠りどころとして、銅をして銀に変えることを決めたのである。 政府は、国庫に入れる税には銀貨を要求し、兵士などへの俸給には銅貨をもってした。

Налоги собирались серебром, а жалованье раздавалось медью.

膨大な量のコペイカ銅貨が発行され、その偽造も大量に現れた。 銅貨の偽造には、皇帝の身近にいる大貴族や高官たちが関っていると噂された。 そのため、コペイカ銅貨の価値は急速に下落し (1660年から1663年までの間に、銀貨1コペイカに対して銅貨は2コペイカから15コペイカに下落した)、その結果、投機がさかんになり、物価が高騰した。 1662年7月25日、モスクワの民衆は、不正を働いた大貴族の引渡し、免税、コペイカ銅貨の廃止などを要求して暴動を起こした (銅貨一揆 Медный бунт)。 アレクセイ皇帝は銃兵隊によって暴動を鎮圧し、数百のモスクワ市民が暴動に加わったかどで処刑された。 しかし、翌1663年には勅令によってコペイカ銅貨は廃止され、1534年の貨幣制度への回帰が決断された。 国庫は市中のコペイカ銅貨100枚に対してコペイカ銀貨1枚の割合で買戻した。

Медный бунт, 1662 г.

 

アレクセイ皇帝の幣制改革は頓挫したが、コペイカ銅貨とルーブル銀貨を基本とする貨幣制度の企図は、彼の息子であるピョートル・アレクセーエヴィチ (ピョートル一世) に引き継がれることになる。

 


 

たび重なる軽量化の結果、17世紀末までに非常に小さな貨幣になってしまったコペイカ銀貨は、流通場裡の要求をかなえることができなくなった。 コペイカ銀貨で高額の支払をするには計算勘定に膨大な時間を要し、さりとて、市場 (いちば) での日常的な小口取引に使うにはコペイカ銀貨はまだ高価すぎた。 当時、貨幣は手作りであった。 より低額面の貨幣 「ヂェンガ」 を発行することは、国庫にとって不利益であるので、それらはほとんど製造されなくなっていた。 そのため、17世紀末には、市場 (いちば) や酒場などでの日常的な小口取引の必要から、個々の住民が各自勝手にコペイカ銀貨を分割して、すなわち新しい軽量のコペイカ銀貨は半分に、重量のある古いものは3分の1に切断して、ヂェンガ貨幣を作っていた。

 

ピョートルによる幣制改革

ピョートル・アレクセーエヴィチはロシア暦 (ユリウス暦) の1672年5月30日 (現行暦=グレゴリオ暦では6月9日) に生まれた。 1676年に父アレクセイ・ミハイロヴィチが死去すると異母兄のフョードル三世が即位するが、1682年に兄フョードルが死去すると、ピョートルは10歳で帝位を宣示された。 しかし、即位後まもなく、異母兄イヴァン・アレクセーエヴィチとの共同統治を余儀なくされ、異母姉ソフィアが摂政として実権を握ることになった。 1689年に摂政ソフィアが失脚し、1696年に名ばかりの共同統治者イヴァン (五世) が死去すると、ピョートルの単独統治になった。

改革の準備 ― コペイカ銀貨の軽量化と発行年号の打刻
ピョートルによる幣制改革の実行準備は1690年代後半に始まった。 新しい貨幣制度の基礎には、アレクセイ・ミハイロヴィチ帝のときのように、コペイカ銅貨とルーブル銀貨が採用された。

За основу новой монетной системы были приняты, как и при Алексее Михайловиче, медная копейка и серебряный рубль.

コペイカ銅貨にしてもルーブル銀貨にしても、「現物」 が姿を現す1704年になって、ようやく貨幣制度の中に組み入れられることになるが、しかしこれらが出現する前に一連の事業が先行したことは、1690年代の末には将来の貨幣制度の輪郭が十分に明確になり、直面した事業計画がかなりはっきりと存在した。

新しいルーブル銀貨の重量について、アレクセイ・ミハイロヴィチの政府がずっと以前に断念したターレル銀貨の重量を選択することで、その課題が最終的に解決された。 かくして、1654年のアレクセイ・ミハイロヴィチ帝の改革でも試みられた、ルーブルの銀の量を減らすという、戦略的課題が再び提起された。 しかし、その決定は、戦術的には1654年と全く異なっていた。 ピョートルは、重量を新しくしたルーブル銀貨とコペイカ銅貨の導入を数年間見合わせて、まずは古いルーブル貨幣の実質的基礎であったコペイカ銀貨の減量を始めたのである。 1704年に発行されることになるルーブル銀貨の重量は、「針金の」 コペイカ銀貨 "проволочная" копейка (ワイヤ・コペイカ) の最後の減量が行なわれた1698年に既に決定されていた。 すなわち、1698年に発行されたコペイカ銀貨 (0.28グラム) 100個分の重量は、ターレル銀貨 (イェフィモク) や将来発行されることになるルーブル銀貨 (重量約28グラム、純銀分約25〜26グラム) と一致させたのである。

さらに1696年には、全ての極小のコペイカ銀貨に発行年号をいれた。 (ロシアの貨幣上に発行年号が現れた最初は、フョードル・イヴァノヴィチ皇帝のもと、1596年にノヴゴロド造幣廠で製造されたコペイカ銀貨であった。) このほとんど目に付かぬ新施策の意義・重要性は、これらの年号を入れた旧様式のコペイカ銀貨の流通が停止され、コペイカよりも低額面の銅貨の発行が始まる1700年に明らかになるのである。 貨幣の発行年号は、新しいコペイカ銅貨の流通が開始される1704年にも刻印された。

è  発行年の文字表記

 

銅貨の制定
銅貨の制定は、信用失墜した先駆の改革のように、より重大な政治的課題であった。 この部分では、改革は、先ず以て人々に告知し、その発行を最長期間延引した。 当時はまだ多くの人々が 「銅貨一揆」 を記憶しており、直に目撃した人も多数生存していた。 ピョートルは、人々の銅貨への当然の疑惑や不信感を完全に克服するため、手際よく事を運ばなければならなかった。

ピョートルは、流通過程での深刻な 「小銭 мелочи」 不足に対処するため、コペイカよりも低額面の貨幣の発行に着手した。 1700年に機械で製造された円形のヂェンガ (1/2コペイカ) 銅貨、ポルーシカ (1/4コペイカ) 銅貨、ポルポルーシカ (1/8コペイカ) 銅貨の流通が開始された。 銀貨に先立って行なわれたこれらの新しい銅貨の発行を、人々は否応なく受け入れた。


ヂェンガ (1/2コペイカ) 銅貨 (1700年)

ポルーシカ (1/4コペイカ) 銅貨とポルポルーシカ (1/8コペイカ) 銅貨 (1700年)
これらの銅貨には、キリル文字表記で発行年号が刻印されている。

1700年におけるヂェンガ銅貨とポルーシカ (1/4コペイカ) 銅貨の発行に先立ち、住民に対してそれについての布告の周知が為された。 新貨幣についての皇帝の勅令文書が人通りの多い場所に掲げられ、教会では礼拝の後にその勅令が読み上げられ、市場では布令役が何日ものあいだ声を嗄らして叫んでいた。

1704年になって、文字表記の発行年 のある大型のコペイカ銅貨がようやく発行された。


コペイカ銅貨 (1704年)

1700年には、1プード (16,380グラム) の銅から12.8ルーブル分の銅貨が製造されたが、 この数量は1702年には15.4ルーブル分にまで増え、1704年には20ルーブル分、1718年からは1プードで40ルーブル相当の銅貨が製造された。

1699年10月2日付勅令で 「ヂェンガ、ポルーシカおよびポルポルーシカの各銅貨は、銅1プードから12ルーブル80コペイカ」、1701年1月12日付勅令で 「ヂェンガ、ポルーシカの各銅貨は、銅1プードから15ルーブル44コペイカ」、1704年1月28日付勅令で 「全額面の銅貨は、銅1プードから19ルーブル20コペイカ」 が製造されるものとされた。 また、1713年7月3日付元老院令で 「全額面の銅貨は、銅1プードから20ルーブル」、1718年1月24日付勅令で 「ポルーシカ銅貨は、銅1プードから40ルーブル」 が製造されるものとされた。 さらに、1723年6月28日付勅令で 「5コペイカ銅貨は、銅1プードから40ルーブル」、1724年1月31日付元老院令で 「コペイカ銅貨は、銅1プードから20ルーブル」 が製造されるものとされた。

 

新様式の銀貨の制定
1700年の勅令では、政府のこの先の意向を全く明かさなかった。 しかしながら、銅の 「小銭」 が出現して1年の後、1701年に、さらにひとつの造幣所の稼動が始まり、 ポルチーナ銀貨、ポルポルチンニク (25コペイカ) 銀貨、グリヴェンニク (10コペイカ) 銀貨、10ヂェンガ (5コペイカ) 銀貨といった、新しい一連の銀貨が発行された。 新しい銀貨は、それまでのコペイカ銀貨と異なり、大きなサイズと正円形を特徴としていた。 しかし、ルーブル銀貨とコペイカ銅貨は、まだ発行されなかった。 コペイカは、1701年もその後も、銀貨で発行され、以前のように銀の 「針金 проволока」 から製造されていた (ワイヤ・コペイカ)。


ポルチーナ (50コペイカ) 銀貨 (1701年)

ポルポルチンニク (25コペイカ) 銀貨 (1701年)

グリヴェンニク (10コペイカ) 銀貨と10ヂェンガ (5コペイカ) 銀貨 (1701年)

 

1704年に最初のルーブル銀貨が発行された。 大量のルーブル銀貨を短期間で製造する必要から、貨幣の複雑な製造工程を単純化し製造費用を抑制するために、ターレル銀貨や (めじるし付きの) イェフィモクに再刻印された。 そのため、この年と次の年に発行されたルーブル銀貨には、元の貨幣の図柄が残っているものもある。


ルーブル銀貨 (1704年) 重量28.44グラム、銀品位84/96、純銀分24.89グラム

 

ピョートル大帝のルーブル銀貨は、1704年に製造が開始されて1725年に死去するまでのわずかの期間に、おびただしい種類が製造されている。 それらの代表的ものについては次を参照されたい。

è  ピョートル大帝のルーブル銀貨

 

ロシアの経済市場を、ターレル銀貨が国際貿易の基準通貨である西欧の経済市場と、より堅牢で不変の関係を樹立するための条件として、ルーブルの重量を国際貿易通貨の規格に導くことは、新しいロシアの貨幣制度の独立性を確立し、遅ればせながらヨーロッパ貨幣制度の領域に平等の権利で参入するための方策であった。 西欧にとってロシアのルーブル銀貨は標準規格のターレル銀貨であり、ロシア国内ではピョートルのルーブル銀貨は西欧の貨幣の物質的形状を採用したロシアの貨幣であった。 そして、構造的にはルーブルはターレルと全く無関係であった。

Для Европы русский рубль был полноценным талером; внутри страны рублевик Петра был принявшим материальную форму русским рублем. Структурно же рубль не имел ничего общего с талером.

 

コペイカ銀貨の廃止とコペイカ銅貨の発行の中断
銀貨と同様の形状と文字表記の発行年を持った大型のコペイカ銅貨が現れたのは、ようやく1704年のことである。 この1704年には、ルーブル銀貨の最初の発行も始まった。

このようにして、毎年の発行年の付いた 「針金の」 コペイカ銀貨の形でのピョートル以前の旧い貨幣制度と、1704年までに完成した新しい貨幣制度との共存は、この後14年間続くことになる。 この間は、50年前のアレクセイ・ミハイロヴィチ帝の時代のように、再びコペイカ銀貨とコペイカ銅貨が同時に流通した。 しかし今回は、それらの相互の関係は異なっていた。 すなわち、コペイカ銀貨は 「先導役」 で、いわば銅貨の担保のようなものであり、 コペイカ銅貨は今や新しい貨幣制度における多様な銅貨や銀貨の一つであった。 それにしても、延引されていた改革前の貨幣 (コペイカ銀貨) の製造を、長い間辛抱したものである。 ピョートル自身、コペイカ銀貨を 「古いしらみ」 といい、それを根絶することが望みであると、寵臣A.D.メンシコフ Александр Данилович Меншиков, 1673-1729 に宛てた幣制改革問題に関する手紙の中で述べている。

надежда "вскоре покончить со старыми вшами"

銀の針金の断片にハンマー式の極印打刻によって製造されていた従来のコペイカ銀貨 (ワイヤ・コペイカ "проволочная" копейка ) の製造は、1718年1月に全ての造幣廠で停止された。

 

新様式の低品位コペイカ銀貨( ビロン貨幣)の製造
1713、14、18年の短期間、銀の針金から作られされた不規則な形状のコペイカ銀貨の製造がまだ続いていた時期に、円形の新しい様式のコペイカ銀貨が少量発行されている。 この円形のコペイカ銀貨は、0.6グラムほどの重量があるが、その銀品位は38/96 と低いものであった( ビロン貨幣)。 従来の銀の針金から造るコペイカ銀貨の場合、針金を延ばしたり切断したりするのに、銀の品位が低いと不都合が生じやすいため、比較的高品質の銀を使うことになっていた。 これに対して、機械による製造の場合には、貨幣におけるその含有物は自由に減ずることができたことによる。 貨幣の品質よりも大きさを重視したことによるものと思われる。 この低品位コペイカ銀貨の製造に伴って、比較的低額面のアルティン (3コペイカ) 銀貨と5コペイカ銀貨も品位を従来の半分に (77/96 から 38/96 へ) 落して、サイズを大きくしたものが発行された。 (これらの低品位銀貨に含まれる銀量は、1707〜10年当時に発行されたルーブル銀貨の公定純銀量と等価であった。)

ビロン貨幣 биллонная монета) : 銀の含有率が50%以下の合金 (主要成分は、一般的には銅) で造られた貨幣。 (фр. billon)


コペイカ銀貨 (1714年) 重量0.6グラム、銀品位38/96


アルティン銀貨 (重量1.7グラム、銀品位38/96) と5コペイカ銀貨 (重量2.83グラム、銀品位38/96)(1714年)

 

1718年、コペイカ銀貨の発行の停止と同時に、コペイカ銅貨の製造も中止された。 このようにして、旧いコペイカ銀貨の 「根絶」 は、額面そのものの存在が途絶えたことで覆い隠された。 コペイカ銅貨の発行は、ピョートル二世の治世に再開されることになる。

 

金貨の制定
1701年に、「チェルヴォネツ червонец」 金貨 (3.45グラム 品位1000分の970) が製造され、1714年にはこれに2チェルヴォネツ金貨がつづいた。 チェルヴォネツ金貨は、額面価格がなく、価格は金の時価の変動に左右された。 1718年には若干純度の下がった2ルーブル金貨 (約4.1グラム、品位1000分の781) が製造された。


2チェルヴォネツ金貨 (1714年) と1チェルヴォネツ金貨 (1710年)


2ルーブル金貨 (1720年)

1712年1月25日付元老院令で 「チェルヴォネ金貨は、品位96分中94 1/10の金1フント (409.5グラム) から118〜119個、2チェルヴォネツ金貨は59個」、 1718年2月14日付勅令で 「2ルーブル金貨は、品位96分中75の金1フントから100個」 が製造されるものとされている。

Сенатский указ от 25 января 1712 г.
Червонуцы: 118 —119 штук (или 59 штук двойных червонцев)из 1 фунта золота 94 1/10 пробы.
Именной указ от 14 февраля 1718 г.
2-рубдевики: 100 штук из 1 фунта золота 75 пробы.

チェルヴォネツは、高品質の金を含有するオランダのダカット金貨(3.4グラム)の規格に相当する金貨であった。 ロシアでは、それ以前にも金貨は発行されたが、それらは褒賞用であって貨幣ではなかった。

 


 

[参考文献]

  1. I.G. Spassky. "The Russian Monetary System" Jacques schulman N.V. - Amsterdam-C, 1967.

  2. И.Г. Спасский. " Русская монетная система"
     ( Web : http://www.arcamax.ru/books/spassky01/spassky01.htm. )

 

ロシア貨幣の呼称・俗称については、次を参照されたい。

è  ロシア貨幣の用語集

 

本稿における貨幣のイラスト図版は V.I.Petrov "Catalogue des monnaies russes" 1899 (リプリント版 1964) より転載した。

 


はじめに      18世紀の貨幣流通

 

はじめに / ピョートル大帝の幣制改革 / 18世紀の貨幣流通 /
19世紀の貨幣流通 / 帝政ロシアの紙幣
/ ドストエフスキーの世界

ロシア革命の貨幣史