帝政ロシアの通貨事情 |
ロシア貨幣の用語集 Нумизматические термины по русским деньгам
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ロシア貨幣に付けられた呼称・異称・俗称などについて、まとめてみました。 ロシアの文学作品などを読まれるときに参照してください。 |
名 称 |
ロシア語表記 |
備考・意味・解説 |
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アシグナーツィア |
ассигнация |
1769年から発行されたロシアの最初の紙幣。 当初は銅兌換 (純銅1/16プード=1,049グラム)、その後1786年に発行された紙幣は銀兌換であった。 1843年に国家信用券と引き換えられ、1849年に流通が停止された。 《参 考》 アシニア (仏:assignat、露:ассигнаты アシグナーティ)。
フランス革命当時、18世紀末にフランスで発行された不換紙幣。
最初は、破産したフランス財政を救うため、没収されて国有化された教会財産の土地を担保とした土地債券として、1789年に1万リーヴルの額面で総額4億リーヴル発行された。
1790年により低額面で紙幣化され、金属貨幣の代りに紙幣として発行されたが、乱発されたため、激しいインフレーションを引き起こした。
アシニア紙幣の価値は、1791年初頭には額面の90%であったものが、1794年末には17%にまで下落した。
1797年に全てのアシニア紙幣は無効になった。
貨幣単位リーヴル (仏:livre、露:ливр) は1795年4月に幣制改革によってフラン (franc、франк) と改称された。
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アルティン |
алтын |
3コペイカ銅貨 (銀貨、紙幣)。 もとは、ロシアの古い貨幣単位。 17世紀後半〜18世紀はじめに発行された貨幣の名称。 6ヂェンガに相当した。
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アルティンニク |
алтынник |
3コペイカ銅貨 (銀貨、紙幣)
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イェフィモク |
ефимок |
16〜17世紀のロシアでのターレル銀貨の呼称。 当時ロシア国内では、コペイカ銀貨などの貨幣にする銀素材が不足していたため、西欧から大量のターレル銀貨を (通貨としてでなく、銀の素材として) 輸入していた。 ピョートル大帝の父であるロマノフ朝第二代のアレクセイ・ミハイロヴィチ帝治世の1654年初頭、ターレル銀貨に馬上の皇帝像と銘を打刻し、ルーブル銀貨として発行したが、実体価値が当時のコペイカ銀貨の64枚分しかなかったため、住民たちから拒絶されてしまった。 そこで、翌1655年に、ターレル銀貨に2つの刻印 (人物の絵姿の刻印と年号の 「1655」 の四角形の刻印) を打刻し、64コペイカの価値があるロシア貨幣として流通させた (「めじるし付きのイェフィモク ефимки с признаком」)。 それに伴って、流通市場に留まっていた1654年のルーブル銀貨は、イェフィモクと同一価値 (64コペイカ) と見なされた。 ターレル銀貨への刻印の打刻は1655年中もしくは1656年初頭に中止されたが、「めじるし付きのイェフィモク」 は1659年初頭までロシアの流通過程に残っていた。 《参 考》 ターレル (Taler/Thaler、露:талер)。
「ターレル」 の語源は、16世紀初頭、神聖ローマ帝国版図のボヘミアにあったヨーロッパ有数の銀山ザンクト・ヨアヒムスタール Sankt Joachimsthal (チェコ名ではヤーヒモフ Jáchymov) にあるといわれている。
16世紀初頭からこの地で製造された大型の銀貨 (重量29.2グラム) を 「ヨアヒムスターレル Joachimsthaler」、略して 「ターレル」 と言った。
その後、神聖ローマ帝国やドイツ周辺の各地で発行された同様の銀貨も 「ターレル」 と呼称され、ヨーロッパ各地での商取引の基準貨幣となった。
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インペリアル |
империал |
ロシアで1755〜1899年の間に断続的に製造された金貨。 当初は純金11.61グラムを含有し、10ルーブルと等価であった。 5ルーブルと等価の半インペリアル金貨も流通していた。 1838年のカンクリンの貨幣改革のとき、インペリアル金貨は公定で10ルーブル30コペイカと価値づけられた。 その後の信用通貨の低落に関連して、インペリアル金貨は19世紀末には信用券で15ルーブル、半インペリアルは7.5ルーブルに価値づけられた。
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貨幣の重量単位 |
ロシアでは1899年6月4日にメートル法が公式に採用されたが、一般には十月革命後まで旧来の度量衡が併用されていた。 特に貨幣で関係の深い重量単位については次のようになっている。 |
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1プード пуд |
= 40フント |
= 16,380グラム |
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1フント фунт |
= 96ゾロトニク |
= 409.5グラム |
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1ゾロトニク золотник |
= 96ドーリャ |
= 4.266グラム |
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1ドーリャ доля |
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=  0.0444349グラム |
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宮廷貨幣 |
монеты для дворцового обихода |
18世紀のロシアの宮廷で、当時流行っていたトランプ賭博の支払い用として、勅令によって製造された金貨。
賄賂や、他のいかがわしい取引の際の支払い用としても使用されたと言われている。
最初の宮廷貨幣は、エリザヴェータ女帝治世の1756年に、モスクワ造幣廠で、2ルーブル、1ルーブル、ポルチーナ(半ルーブル)の3種類の額面で製造された。
これらの宮廷貨幣は一般流通用の金貨よりも幾分軽量で、一般用の10ルーブル金貨が量目16.57グラム、品位88/96(従って1ルーブル当りの純金量は1.519グラム)であったのに対して、宮廷用の1ルーブル金貨は量目1.60グラム、品位88/96(従って1ルーブル当りの純金量は1.467グラム)であった。
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金ルーブル |
рубль золотом |
金に基づく貨幣単位。 金本位制度下の1897〜1914年当時の1金ルーブルは、純金17.424ドーリャ (0.77423グラム) の価値と等価であった。
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銀ルーブル |
рубль серебром |
銀に基づく貨幣単位。 1839年7月1日に銀ルーブルがロシアの標準的貨幣単位である旨が発布され、1銀ルーブルは純銀4ゾロトニク21ドーリャ (17.996グラム) の価値と等価であるとされた。
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グリヴェンニク |
гривенник |
10コペイカ銀貨 (銅貨、紙幣) |
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グリヴナ |
гривна |
10コペイカ銀貨 (銅貨、紙幣)。 グリヴェンカ гривенка とも言う。 もとは、ロシアがルーシ Древняя Русь と呼ばれていた頃に、金や銀の重量を測るために用いられた、ロシアの古い重量単位であり、貨幣と同義でもあった。 その頃、金のグリヴナは、銀のグリヴナの12.5倍高価であった。
12世紀には、約204グラムの延べ棒状の銀塊を表わした (ノヴゴロド・グリヴナ гривна новгородская )。
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国家信用券 |
государственный кредитный билет |
アシグナーツィアを回収するために、1843年に発行された国庫紙幣。 国家の信用を以て金貨または銀貨との兌換が保証されていた。 クリミア戦争 (1853〜56年) の勃発によって、1854年に国家信用券の兌換 (正貨支払) が停止され、財政赤字補填のために国家信用券が大量に発行されると、その価値が低落し、1857年末には従来の65%までに下落した。 外国からの借款によって国立銀行の兌換準備金の増大を図り、正貨支払いを再開したが、この無益な企図を行った結果、兌換準備金は激減し、1863年11月にはロシアは再び不換紙幣国となった。 1877年のオスマン帝国 (トルコ) との戦争に際して、戦費調達のため国家信用券の更なる増発によって、その価値の下落はますます激しくなった。 1885年、合法的取引はすべて金貨をもって評価されるべきこと、それによって生じた支払いは為替相場の時価をもって金または国家信用券で行われるべきことが命じられた。 1892年にS.Yu.ヴィッテが財務大臣に就任し、国際的な銀価格の低落からルーブルを防衛するために、1839年以来本位貨幣として造幣の自由が規定されていた1ルーブル銀貨の自由造幣制を1893年に廃止し、各種金融為替を統制することによってルーブル相場の安定に努めた結果、1896年には紙幣ルーブルは金価格で 66.7コペイカに安定しはじめた。 1897年の幣制改革で、それまで兌換券の発行権を持たなかった国立銀行に発行権が付与され、国家信用券は国立銀行券 (金兌換券) になった。 新しいルーブルの価値は、その当時の流通貨幣総額の 91.7%を占める紙幣ルーブルの市場相場での現実価値に引下げられ、1金ルーブルは1.5紙幣ルーブルと等価交換された。 新しい1ルーブルは純金 17.424ドーリャ (0.774234g) を含有するものと定められたが、これは旧来のルーブル平価の三分の二に等しい。 金で表現され、かつ金で完全に保証された国家信用券は金貨と同様に無制限の法貨であった。
1914年7月20日 (現行暦8月2日)、ロシアはドイツに対し宣戦を布告 (第一次大戦)。 ロシア政府は戦時緊急通貨対策を決定し、資本の国外逃避を防止するため、7月27日 (8月9日) に国家信用券の金兌換を停止した。
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コペイカ |
копейка |
1534年から流通した貨幣の名称または貨幣単位で、1/100ルーブル。 もとは、ノヴゴロドで製造された銀貨 「ノヴゴロド・ヂェンガ (ノヴゴロドカ)」 の異称。 1コペイカ銀貨の重量は、1535年には0.68グラムであったが、1610〜13年には 0.51グラム、1630年からは0.48グラム、1682年からは0.41グラム、1698〜1719年には0.28グラムと、時とともに軽量化された。 1704年から1コペイカ銅貨が製造されるようになった。 漢字略号では 「哥」。
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紙幣の色 |
一般に、紙幣は額面ごとに識別色が決められており、それぞれの紙幣は識別色で呼ばれることが多かった。 |
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紙幣ルーブル |
рубль ассигнациями |
アシグナーツィア紙幣に基づく価格の計算単位。 ロシアでは1769年に最初の紙幣 「アシグナーツィア」 が発行されたが、度重なる戦費調達のために増発を繰り返し、その価値は下落し続け、1830年代にはアシグナーツィア1ルーブルは公定相場で27コペイカに等しくなった。
イゴール・カンクリン Егор Францевич Канкрин, 1774-1845 (1823〜1844年に財務大臣) による1839年の通貨改革によって、基本の貨幣単位である銀ルーブルとアシグナーツィア紙幣の間に一定かつ不変の関係 「1銀ルーブルはアシグナーツィア3ルーブル50コペイカに等しい」 が確立されたが、1843年に金貨または銀貨との兌換が保証された新しい型式の紙幣 「国家信用券 Государственный кредитный билет」 (当初は国庫紙幣) が発行され、アシグナーツィアは銀貨または国家信用券と交換された (アシグナーツィアの廃棄は1849年)。
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シベリア貨幣 |
сибирские монеты |
エカテリーナ二世 (大帝) 治世に、流通領域をシベリアに限定して発行された銅貨。 1763年12月5日〜1781年6月7日の間に、コリヴァン産の銅 колыванская медь を使用して、ポルーシカ (1/4コペイカ)、ヂェンガ (1/2コペイカ)、1、2、5、10コペイカの6種類の額面で発行された。 1763年、コリヴァン・ヴォズネセンスク工場 (アルタイ地方) は、コリヴァン鉱山で採掘される銀や金の鉱石を精錬した後の副産物として得られる銅を銅貨の製造に使用することの可能性について、皇帝官房から諮問された。
それに対して、工場は、銅は銅貨造幣に十分な量があるが、その銅には若干の銀および微量の金が残留しており、そのため、それから通常の造幣率 (1763年1月27日の元老院令で、銅1プードから16ルーブルの銅貨を製造するものとされていた) で銅貨を製造することは 「不利益であり遺憾である」 と報告した。
当時の造幣局総裁で四等文官であった I.シュラッテル Иван Андреевич Шлаттер (Iohann Wilhelm Schlatter), 1708-68 は、金・銀・銅貨の造幣率に基づいてコリヴァン産の合金の造幣率を計算した。 合金1プード当り、銀の含有物は7ルーブル35.59コペイカ、金は1ルーブル1.02コペイカ、銅は15ルーブル87コペイカに相当し、総計で1プード当り24ルーブル24コペイカであった。 貴金属がごく僅か多い場合を見越して、シュラッテルは端数処理して造幣率を25ルーブルと算定した。
1763年12月5日、エカテリーナ女帝は、コリヴァン・ヴォズネセンスク工場で製造され、流通がシベリア県域内限定された、新しい銅貨の流通に関する勅令を発布した。 勅令にはシベリアのシンボルである2匹のテンが描かれた新しい貨幣の図柄が添えられていた。 額面10、5および2コペイカの貨幣には、その縁に 「колыванская медь (コリヴァンの銅)」の銘が入れられていたが、後にこの銘は КМ の文字に変えられて貨幣の表面に移された。
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造幣率 |
монетная стопа |
ある額面価格の貨幣を製造する場合、定められた品位の貴金属合金の単位重量から製造される貨幣の数量比率。 (нем. Münzfuß, фр. Pied de monnaie )
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ヂェシャートカ |
десятка |
10ルーブル紙幣 (金貨)
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チェトヴェルタク |
четвертак |
1/4ルーブル (25コペイカ) 銀貨
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ヂェーネシカ |
денежка |
半コペイカ (1/2コペイカ) 銅貨
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チェルヴォネツ |
червонец |
高品質の金を含有する金貨、とくに外国の金貨、主にオランダのダカット金貨に与えられた呼称であった。 赤味がかった高品質の金の色に由来する。 ダカット金貨(3.4グラム)の規格に相当する最初のチェルヴォネツ金貨はピョートル一世の治世であった1701年に発行された。 それ以前にも金貨は発行されたが、それらは褒賞用であって貨幣ではなかった。 1755年から第一次大戦勃発まではチェルヴォネツの価値は、5〜10金ルーブルであった。
ロシア革命後、1922年にソヴェト・ルーブルの平価切下げの目的で新しい貨幣単位 「チェルヴォネツ」 が制定された。 ソ連ゴスバンクは額面25、10、5、3、2および1チェルヴォネツの国立銀行券の発行に着手し、1923年にはチェルヴォネツ金貨も発行された。 チェルヴォネツの金含有量は純金7.7423グラム、すなわち革命前の額面10ルーブル金貨と同一であった。
このチェルヴォネツ金貨は、国立銀行券 (チェルヴォネツ紙幣) の基礎として法文上制定されたもので、僅少額が製造されたのみで、事実上流通しなかった。
1947年の第二次大戦後の通貨改革により、1チェルヴォネツ=10ルーブルとして、チェルヴォネツは廃止され、ソヴェト連邦の貨幣単位はルーブルに統合された。
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ヂェンガ |
денга / |
半コペイカ (1/2コペイカ) 銅貨。 もとは、14〜18世紀に製造された銀貨の名称。 14世紀末にはモスクワ公国で、15世紀はじめにはノヴゴロド公国で製造された。 1グリヴナ (約204グラム) の銀から200個のヂェンガ銀貨が作られた。 |
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ヂェンギ |
деньги |
(一般に) 金銭、お金の意。
ロシア語ではヂェンガ деньга の複数形とされるが、現代ではヂェンガという語は古貨幣 (ヂェンガ銀貨または銅貨) を表わす時にのみ使用される。
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ツェルコーヴニク |
целковник |
会話で用いられる 「1ルーブル (最初は銀貨)」 の呼び名。
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ツェルコーヴィー |
целковый |
会話で用いられる 「1ルーブル (最初は銀貨)」 の呼び名。 (完全無欠 (不足が無い) の意。) |
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低品位銀貨 |
низкопробная серебряная монета |
è ビロン貨幣 биллонная монета
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銅貨一揆 |
Медный бунт |
ロマノフ朝第二代のアレクセイ・ミハイロヴィチ Алексей Михаилович, 1629-1679 (在位1645-76年) の治世下、1662年7月に起きた民衆暴動。 相次ぐ戦争と重税、それにペストが加わった不況で農民らの生活は極度に困窮した。 そのような状況にもかかわらず、戦費調達に苦しむロシア政府は銅貨を乱発し、それを銀貨と等価で流通させようとした。 そのため、食料品をはじめとする物価が暴騰するなどインフレを引き起こした。 政府の支払いは銅貨を使用する一方で、国庫納入には銀貨を要求したため民衆の不満は一気に噴出し、赤の広場で暴動が起った。
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ノヴゴロドカ |
новгородка |
14世紀以降、イヴァン四世 (雷帝) の母エレーナ・グリンスカヤによる貨幣改革 "денежная реформа Елены Глинской" 前後までの、ノヴゴロドの重量基準によるヂェンガ銀貨。 ノヴゴロドカの重さはモスコフカ (モスクワの重量基準によるチェンガ) の2倍であった。 貨幣の表面に 「コピヨー (槍) を持つ騎士 всадник с копьем」 の図柄が描かれているノヴゴロドカは、 コピヨーのヂェンガ、すなわち 「コペイカ копейка」 とも呼ばれ、この名称のほうが主流になって、ノヴゴロドカの名は比較的早い時期に使われなくなった。
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ビロン貨幣 |
биллонная монета |
銀の含有率が50%以下の合金 (主要成分は、一般的には銅) で造られた貨幣。 帝政ロシアで1867〜1917年に製造された額面5、10、15および20コペイカの 「銀貨」 は、正しくはビロン貨幣である (これらの額面の貨幣は、いずれも品位500。 1867年以前には、これらの額面の貨幣は品位868または750であった)。 |
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ピャータク |
пятак |
5コペイカ銅貨または銀貨 (紙幣)
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ピャタチョーク |
пятачок |
5コペイカ銅貨または銀貨 (紙幣)
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品位 |
проба |
メートル法施行以前のロシアでは、貨幣など貴金属合金の品位表示は 「ゾロトニク法品位」 が用いられていた。 これは合金1フント (96ゾロトニク=409.5グラム) 当りに含まれる貴金属の純分をゾロトニク (4.266グラム) の重量比で表したもので、純粋な貴金属では品位96となる。
1918年9月11日にロシア連邦共和国人民委員会はメートル法施行令を採択し、1927年4月1日からメートル法が完全実施されている。
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補助貨幣 |
разменная монета |
額面価格 (名目価値) に対して実質価値が低い貨幣。 額面価格が実質価値と等しい本位貨幣の補助として、日常の少額取引に用いられる。 補助貨幣の製造によって、国家は、この貨幣の額面価格と貨幣に含まれる金属の実質価値との差額を収入として得ることになる。
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ポルコペイキ |
полкопейки |
半コペイカ (1/2コペイカ) 銅貨
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ポルーシカ |
полушка |
半ヂェンガ (1/4コペイカ) 銅貨
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ポルチーナ |
полтина |
半ルーブル (50コペイカ) 銀貨
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ポルチーニク |
полтиник |
半ルーブル (50コペイカ) 銀貨
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ポルポルチンニク |
полуполтинник |
四半ルーブル (25コペイカ) 銀貨
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ロシア語で 「ポル пол-/полу-」 は 「半分」 の意味。
これらの額面額は、実際の貨幣を1/2、1/4に分割して用いていた秤量貨幣(ひょうりょうかへい) の名残。
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モスコフカ |
московка |
14世紀以降、イヴァン四世 (雷帝) の母エレーナ・グリンスカヤによる貨幣改革 "денежная реформа Елены Глинской" 前後までの、モスクワの重量基準によるヂェンガ銀貨。 モスコフカの重さはノヴゴロドカ (すなわちコペイカ) の半分であった。 モスコフカには、従来から 「太刀を持つ騎士 всадник с мечом」 の図柄が描かれていり、単に 「ヂェンガ」 と呼ばれるようになった。
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ルース |
русь |
1897年の幣制改革に先立って一時期検討された金本位制度のもとでの本位貨幣の単位。 この幣制改革に当たっては、ルーブルよりも小さな単位を作ってこれをルーブルに代えることも検討され、1895年には、15ルース (1インペリアル)、 10ルース (2/3インペリアル) および5ルース (1/3インペリアル) の3種類のルース金貨の試作さえも行われたが、新しい単位を創ることで貨幣価値に大混乱を来たすことを恐れて、この改革では 「ルーブル」 の単位が保存され、ルースは採用されなかった。
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ルブリョーヴィク |
рублёвик |
1ルーブル銀貨 (紙幣)
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ルーブル |
рубль |
ロシアの基本的な貨幣単位。 「切る、きざむ、割る рубить」 あるいは 「短く切った棒 обрубок」 を語源とすると言われており、ノヴゴロド・グリヴナ гривна новгородская (約204グラムの延べ棒状の銀塊) の別称として、13世紀にノヴゴロドで発生した。
ルーブルは15世紀中頃までは支払単位であった。 その重量は、一般に通用する重量単位、すなわちグリヴナまたはグリヴェンカ (約204グラム) に相当し、これから貨幣 (ヂェンガ) 200個が製造された。
イワン四世治下の1534年の幣制改革で、実際の貨幣であるコペイカ銀貨100個を表わす計算単位として用いられるようになった (勘定ルーブル счётный рубль)。
この当時、コペイカ銀貨1個の重量は 0.68グラムであり、従って、1ルーブルは銀68グラムであったが、漸次コペイカ銀貨の重量は減少し、17世紀初頭には1ルーブルは銀48グラムとなり、その後も軽量化が進んだ。
1798〜1915年の間、1ルーブルの銀貨は約18グラム (4ゾロトニク21ドーリャ) の純銀分を含有しており、1839年にはそれが法制化されている (銀本位制)。
また、1897年の幣制改革では、1ルーブルは純金0.77423グラム (17.424ドーリャ) とされた (金本位制)。
漢字略号では 「留」。
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ワイヤ貨幣 |
"проволочная" монета |
ピョートル大帝による幣制改革以前、ロシアにおける貨幣の製造技術は極めて独特なものであった。 貨幣を製造するとき、ヨーロッパの国々では、銀塊を打ち延ばして板にし、貨幣の形状に円盤 ― 「円形 (えんぎょう)」 を切り取っていたが、ロシアでは、銀魂をまず引き伸ばして針金状 (ワイヤ) にして、それから必要な重さをもった切片に分け、それを楕円形に打ち延ばして小さな銀板にし、刻印を押して貨幣にしていた。 この方法だと、円形 (えんぎょう) の製造時には避けられない銀屑の再加工という余分な作業がいらないし、貨幣の重さも比較的均一に保つことができる。
このような製造法によって造られた貨幣を、「ワイヤ貨幣」 と呼んでいる。 |
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