ロシア革命の貨幣史 |
; |
ソヴェト政権初期の郵便事情 (1917〜24年)
|
二月革命によって成立した臨時政府は、革命後ただちに新生ロシアを象徴する郵便切手の発行を決議した。 1917年の夏、郵便電信省 Министерство почт и телеграфов は、切手の図案を公募し、審査委員会は1〜20コペイカの表記価格の郵便切手の図柄として、1909〜1917年様式の通常郵便切手の図案制作者である画家リハルド・ザリーニシュ Рихард Германович Зариньш, 1869-1939 の作 「鎖を切断する剣を持った手 рука с мечом, разрубающим цепь」 を選定した。 しかし、このとき臨時政府は、これらの切手の製造準備に着手しなかった。 * 十月革命直後の数か月の間、郵便料金は革命以前の切手で支払われた。 内閣印刷局の印刷所では、1909〜1917年様式の1コペイカから10ルーブルまでの表記価格の通常郵便切手の印刷が繰り返されていたが、旧いステロ版 (鉛版) は使い古され、切手は品質の劣った染料と膠を使用して種々の紙に印刷された。 熟練した 印刷工 (彼らの多くは赤軍に志願していた) の不足から、切手は配色基準から大きく逸脱して印刷され、それらの多くは 「無目打ち」 で、郵便電報人民委員部へ引渡された。 欠陥のあるものも度々であった。 1918年の初頭、いくつかの末端の郵便機関では、表記価格の低い切手の蓄えを使い果たしてしまった。 そこで、地方では自発的に1、5および10コペイカの表記価格の 「貯金切手 сберегательные марки 」 を使用し始めた。 「貯金切手」 は、1ルーブルまでの少額を郵便電報出張所の貯金局に預け入れるために、20世紀の初頭から用いられた。 1ルーブルに満たない金額は、そのままでは貯金局で預け入れできなかったため、少額預金を希望する者は預金する金額の 「貯金切手」 を購入し、それを 「貯金カード」 と呼ばれる特殊な登録用紙に貼る。 切手が1ルーブル貯まったら、カードは貯金局に預けられ、 貯金局はカードの所有者に現金で1ルーブルを支払うか、またはこの金額を所有者の貯金台帳に記帳した。 1918〜21年には、郵便に用いられた。 марки, предназначенные для наклеивания в сберегательных карточках. Вып. в ряде стран для создания небольших сбережений. Суммарный номинал наклеенных М. с. выплачивается деньгами владельцу карточки или переводится на его текущий счет в обычной сберегательной кассе. М. с. России использ. в 1918-21 в качестве почт.
1918年1月12日、郵便電報人民委員部は、「貯金切手」 を為替送金や小包の添状用に使用することを許可した。 実際には、この切手は国内郵便料の支払いのために用いられ始めた。 国外への郵便物には通常の郵便切手によってのみ支払うことが指示された。 この少し後、1918年6月5日に、人民委員部は、郵便切手の蓄えを消費することに関連して、トルケスタン管区で郵便の目的に 「貯金切手」 および25コペイカから100ルーブルまでの表記価格の 「検査切手 контрольные марки 」 を臨時に使用することを許可した。 「検査切手」 は、本来は貯金局の職務用に特別に用いられたもので、預金受納金額の確認のため、貯金台帳に貼られた。 1918〜21年には、郵便に用いられた。 В России М. к. наклеивались в сберегательных книжках для подтверждения принятой суммы. В 1918-21 некот. из этих марок использ. как почт.
革命前の郵便切手の蓄えを全て使い、それらの印刷を継続しながら、郵便電報人民委員部は直ちに新生ソヴェト共和国に相応しい独自の郵便切手の発行を計画し、教育人民委員部 Наркомпрос (Народный комиссариат просвещения) は、A.V.ルナチャルスキー Анатолий Васильевич Луначарский, 1875-1933 のもと、1918年春に国旗・通貨と共に郵便切手の図案も公募したが、採用される郵便切手の図案はなかった。 結局、郵便電信人民委員会は、十月革命以前に臨時政府が選定した 「鎖を切断する剣を持った手」 の図案をロシア社会主義連邦ソヴェト共和国の郵便切手に採用することにし、この図柄の切手の製造を内閣印刷局 ЭЗГБ (Экспедиция заготовления государственных бумаг) へ依頼した。 1918年2月28日から他市宛普通書簡の郵便料金が35コペイカ、書留手数料が70コペイカになったことに合わせて、新しい郵便切手の表記価格を変更することが決議された。 切手の見本が5月22日に承認され、それらの印刷は5月27日に着手された。 郵便電信人民委員 V.N.ポドベリスキー Вадим Николаевич Подбельский, 1887-1920 гг. によって発行が追認され、1918年10月12日に 「全ロシア中央執行委員会通報 Известия ВЦИК」 で次の通達が公布された。 「新しい革命郵便切手について。 この年の10月15日から新しい革命郵便切手が35コペイカの価格で赤褐色の、および青色の70コペイカが発売される。 前述の切手は、指示された日付から郵便発送の支払のために有効となる。 郵便電信人民委員ポドベリスキー」 «О новых революционных почтовых марках. С 15 сего октября поступают в продажу в обращение новые революционные почтовые марки стоимостью в 35 копеек — синяя и в 70 копеек — коричневая. Означенные марки с указанного числа будут действительны для оплаты почтовых отправлений. Народный Комиссар почт и телеграфов Подбельский» 全ての郵便施設に対して、新しい革命郵便切手が1918年11月7日 (旧ロシア暦では10月25日)、すなわち十月社会主義革命の第1回目の記念日に出回っていなければならない、という命令書電報が出された。 しかし、この切手が発行されるまでの間に、郵便料金が変わり、35コペイカであった普通郵便の料金が15コペイカに下がり、70コペイカであった書留料金が25コペイカになった。 そのため、この切手の使用は限定的で、1921年4月にその使用が停止されることになる。
反革命勢力との軍事対決や、連合国による対ソ干渉戦争と経済封鎖などの内外の危険からロシアを防衛するため、国内の交通・産業・資源を統制した 「戦時共産主義」 と呼ばれる戦時非常政策を採ることを余儀なくされたソヴェト政権は、1918年11月21日からは生活必需品の配給制を実施し、労働者の賃金の多くは現物で支払われるようになり、1920年から1921年の初頭まで、国家による生産物の無償支給、運輸・郵便・電信設備および自治体便益などの無償利用に関する一連の法令が公布されて、国民への物資や労賃の無料配給が行われることになった。 1918年11月24日、「全ロシア中央執行委員会通報」 は、V.I. レーニンとV.N. ポドベリスキーによる11月21日付のロシア社会主義連邦ソヴェト共和国人民委員会議法令 「手紙の無料配達の決定について」 Постановление СНК РСФСР от 21.11.1918 "Об установлении бесплатной пересылки писем" を公布した。 この法令には、次のように書かれている。
「人民委員会議は、都市の労働者階級や農村の貧農相互間における、更なる不断で広汎な文通交換と、彼ら相互間の同盟を更に強固にすることの役に立ち、斯くて、ロシアの革命的社会主義的勢力の編成の任務を推進することを鑑みて、郵便書簡を単純化および簡易化することが必須であると考える。 無料配達の実施後ただちに、普通書簡の量は34パーセント、葉書は10パーセント増えた。 かくて、1919年1月1日から1921年8月15日まで、2年半以上にわたって、ロシアでは普通書簡や葉書など 「15グラム以下の郵便物」 の無料配達が行われることになるが、この間、内閣印刷局の印刷所は旧来の1908〜1917年様式の郵便切手の印刷を継続しており、それらの切手は1923年3月31日まで市中に出回っていた。 * 1923年に至るまで、ロシア国内では通貨のインフレーションが生じていた。 ありとあらゆる投機者や外貨仲買人がそれを煽った。 インフレーションは郵便切手やそれに類する有価証票の価格改定を必要とした。 最初の価格改定は1920年3月10日に行われた。 このとき、1〜20コペイカの額面の旧い郵便切手や貯金切手の価格は100倍に改定された。 25〜70コペイカの切手は表記価格で使用されることが続いた。 そのとき最初の革命郵便切手の流通が廃止された。 同時に、1913年の記念切手や1914〜1915年の慈善郵便切手の使用が停止された。 革命前の25〜70コペイカの切手の使用が停止されるのは、1921年4月8日になる。
1920年11月に南ロシアの ヴランゲリ 将軍がクリミアから撤退し、3年に及ぶロシアの内戦はようやく終了した。 3年間の戦乱のため国土は荒廃し、国内経済はまさに崩壊の寸前であった。 1921年3月10日〜16日のロシア共産党第十回大会で、余剰農産物の徴発制度の廃止が採択され、戦時共産主義から新経済政策 (ネップ) Новая экономическая политика (Нэп) への政策転換が図られた (現物経済から貨幣経済へ復帰)。 7月から8月には公共便益も再び有料となった。 1921年8月10日、国家の新しい名称 (ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国) である РСФСР がデザインされた最初の通常切手が、1〜40ルーブルの5種類の額面で発行された。 これらの切手には、労働者や農民のシンボル、労働者と農民の同盟の標章である鎌と大槌、倒された資本家を意味するドラゴンを踏みつけている労働者が描かれている。 このときから、新しいソヴェト切手が正規に発行されることになる。
* 1921年8月15日に、普通書簡の無料配達が廃止され、新しい郵便料金が設定された。
第2回目の切手の価格改定は1921年8月15日に行われた。 この日、全ての貯金切手および検査切手が、それらの切手に印刷されている表記価格 (1コペイカ〜100ルーブル) に関係なく、新しい価格すなわち他市宛郵便の料金に相当する250ルーブルになった。 8〜9月には、表記価格100〜1,000ルーブルの郵便切手が、(文化財を象徴する図柄の250ルーブル切手を除いて) 前に発行された切手の図柄をそのまま用いて印刷され、 発行された。 切手には多くの変異があり、いろいろな品質の紙に印刷された。
1921年11月3日、新しく1922年様式の紙幣が発行され、旧来の紙幣1万ルーブルがこの新紙幣1ルーブルに相当するものとされた (平価切下)。 1921年11月にはロシア社会主義連邦ソヴェト共和国の最初の記念切手が発行されたが、これは十月革命4周年を記念するものであった (切手の表記価格は、1922年様式紙幣ではなく、平価切下前の通貨に基づいている)。
|
1920年11月、ヴランゲリ 将軍の敗退によって終了した3年に及ぶ 内戦は、農村から大量の労働力を奪い、そのため播種面積は半減し、この年の穀物収穫量は大戦前 1913年の 47%にまで激減しており、更に 1921年には 37%でしかなかった。 このため、1921年から1922年にわたってロシア全土は凄まじい飢饉にみまわれた。 飢餓は35の県の住民9,000万人に及び、そのうち4,000万人以上が飢えたという。 特に、南ウラルや沿ヴォルガ地方では、より長期にわたって多くの人々が難渋している。 これらの地方では、1920年秋から1923年初夏までの間、大量の餓死が記録されているが、飢饉のピークは1921年秋〜翌22年春であり、「1921〜22年の沿ヴォルガ地方の飢饉 Голод в Поволжье 1921-1922 годов」 として知られている。 そのため、郵便電報委員部は寄付金付きの飢餓救済慈善郵便切手を発行し、寄付金は飢餓救済中央委員会基金 фонд Помгола に繰り入れられた。 1921年12月31日、ロシアで最初の、「沿ヴォルガ地方の飢餓救済 помощь голодающим Поволжья」の慈善郵便切手が発行された。 この飢餓救済慈善切手は、4種類発行されたが、内3種類は同一図柄の色違い (赤、緑、茶) であった。 切手の表記価格はいずれも2,250ルーブルであったが、このうち郵便料金は250ルーブル、寄付金が2,000ルーブルであった。
* それに先立つ10月22日 (1921年)、アゼルバイジャン・ソヴェト社会主義共和国で、「沿ヴォルガ地方の諸県の飢餓のため в пользу голодающих губерний Поволжья」 の慈善郵便切手が2種類の額面で発行されている。 切手は、灰色がかった用紙にリトグラフ (石版) 印刷され、各250万枚発行された。 額面500ルーブルの切手には橇で食糧を運送している農民、1,000ルーブル切手には幼子を抱いた婦人と子供が描かれている。
* 翌1922年1月25日には、 「鎖を切断する剣を持った手」 の図柄の革命郵便切手に、「ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国 飢餓に悩む人へ Р.С.Ф.С.Р. голодающим 」 の字句と 「郵便料金+寄付金の額」 が加刷された2種類の飢餓救済切手が発行された。 70コペイカの革命切手は郵便料金100ルーブル+寄付金100ルーブル、35コペイカの切手は郵便料金250ルーブル+寄付金250ルーブルであった。
* 1922年2月、飢餓救済南東地方委員会 Юго-Восточная комиссия Помгола の主導で、4つの額面の飢餓救済の慈善切手が発行され、4月19日に南ロシアのロストフ・ナ・ドヌー、ノヴォチェルカッスクおよびミレロヴォに出廻った。 切手には 「郵便 почта」 の字句があるが、その発行は郵便電信委員部の許可がなかったために、郵便料金支払の証票 (郵便切手) ではなく、慈善の寄付金徴収のための証票とされた。 それらは通常の郵便料金に付加して、書留郵便、郵便為替および小包に貼付された。 これらの切手の売却代金は全て飢餓救済中央委員会基金に移された。 これらの慈善切手は1922年5月2日に停止された。
これらの切手の発行当時の書留郵便料金は 、1921年様式以前の紙幣で 2,000ルーブル (2т) 、郵便為替料金は4,000ルーブル (4т)、小包料金は6,000ルーブル (6т) であったが、1922年7月には国内書留郵便の料金は13万ルーブルになった。 (1921年様式以前の紙幣1万ルーブルは、1922年様式紙幣では1ルーブル) * 1922年11月3日に発行された飢餓救済を目的とした慈善切手は 「無額面」 であった。 これは、当時の凄まじいインフレーションのため、切手の製造段階で郵便料金が幾らになるのか、予測することができなかったことによる。 切手は、1922年様式紙幣で25ルーブル (それより前の様式の紙幣では25万ルーブル) で販売された。 そのうち、郵便料金が20ルーブル、寄付金として5ルーブルであった。 これらの切手は、1923年4月1日まで流通していた。
これらの4種類の切手の図柄は、ソヴェト政権最初の革命郵便切手の図柄 「鎖を切断する剣を持った手 рука с мечом, разрубающим цепь」 をデザインしたリハルド・ザリーニシュ Рихард Германович Зариньш の作品である。
|
帝政ロシアの首都サンクトペテルブルグは、1914年8月ロシア暦18日(現行暦31日)〜1924年1月26日の間 ペトログラードと称されていたが、1924年1月26日にレーニンに因んでレニングラードと改称された (1991年9月6日に旧称のサンクトペテルブルグに改められた)。 レニングラードは、ネヴァ川河口の低湿地に位置しているため、しばしば水害に見舞われ、とりわけ 1777年、1824年、1924年は大洪水に見舞われている。(第二次大戦後では1955年の水害が大きかった。) 1924年9月23日におけるネヴァ川の氾濫 Про наводнение в Леннинграде. 23 сентября 1924 г. は、日本でも報道された。 この洪水被災者を救援するため、1921年発行の通常切手に救済字句、額面、寄付金額を加刷した5種類の慈善郵便切手が発行された。
|
|
ロシア革命の貨幣史 :
はじめに /
序.ロシアにおける金本位通貨制度の実施 /
アルマヴィル貨幣の歴史的考察 /
非貨幣交換のための貨幣代用物 /
|