ロシア革命の貨幣史 (シベリア異聞)

 

 

通貨干渉戦争始末 (シベリア出兵と朝鮮銀行券)

 

ロシア極東へ日本が大軍を派兵していたロシア革命後の混乱期 (1918〜22年)、「ルーブル紙幣」 は通貨としての流通力を失っており、それに代わって北満洲やシベリア・極東地方では、日本通貨との兌換が保証されていた 「朝鮮銀行券」 が、唯一信用力のある通貨となった。

è  [解説] シベリア出兵

è  [解説] 朝鮮銀行 (朝鮮銀行券)

 


 

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極東共和国概観図 オムスク政府 (コルチャーク政府) の崩壊後、ロシア極東では各地で過激派の勢力が強まり、1920年1月26日にニコリスク・ウスリスキー (日本のシベリア派遣軍第十三師団第十五旅団本部が配置されていたウスリー鉄道と東支鉄道への支線の分岐点) で過激派部隊が蜂起したことに続いて、1月31日にはヴラヂヴォストクで政変が勃発した。 オムスク政府の 「プリアムール管区司令官」 としてヴラヂヴォストクを統治していたS.N.ロザノフ中将 генерал-лейтенант Сергей Н. Розанов はほとんど無抵抗の状態で逃亡し、日本へ亡命した (浦塩政変)。

それに代って、沿海州自治会 Приморская областная земская управа (議長A.S.メドヴェーヂェフ А.С. Медведев ) が政権掌握を宣言し、臨時政府 Временное правительство Приморской областной земской управы (浦塩臨時政府) を樹立した。

これに先立ち、イギリスは既に撤兵を決め (1919.10)、アメリカ合衆国も1920年1月にシベリア派遣軍の撤退を通告するなど、連合国各国政府は撤兵を決定していたが、ひとり日本政府のみは駐兵を継続することにした。 ただし、その占領地域を縮小し、軍隊を沿海州南部地域に集中して、ヴラヂヴォストクに親日政権を樹立する方針を決定した。 また、過激派に対しては 「友好的接触」 を指令し、「露国の内政に干渉することを絶対に避くることを以て対西伯利策の精神」 とすることを現地駐屯軍に指示した。 1920年2月17日、ブラゴヴェシチェンスク駐屯の第十四師団長白水中将はアムール州からの撤退を宣言し、27日からブラゴヴェシチェンスク撤退が開始された。

 

ヴラヂヴォストク ― 1920年

ヴラヂヴォストクで沿海州自治会の臨時政府が成立した後の通貨は比較的安定して、100円に対して1万ルーブル台の相場を前後していたが、3月24日〜25日に突然大暴落して2万4〜5千ルーブル台となり、さらに3万5千ルーブルにまで暴落する情勢になった。 その直接の原因としては、国立銀行ヴラヂヴォストク支店が6月1日期限の額面1000ルーブルの小切手 (1920年1月に国立銀行ヴラヂヴォストク支店より紙幣の代用として総額5億ルーブル発行され、シベリア紙幣 と同等に取り扱われた) の取扱いを拒絶したことや、紙幣の真贋鑑定が難しく、そのため人々が不安感を持ったためと思われるが、それ以外に、モスクワのソヴェト政府の通貨政策にも影響されているようである。

巷では、ソヴェト政府の直接支配下に移ったイルクーツク以西のシベリアでは、ソヴェト政府がオムスク政府の発行したシベリア紙幣の流用を停止し、これをソヴェト政府が十月革命後も発行し続けているケレンスキー紙幣によって安価に回収して、その回収したシベリア紙幣を極東方面に持ち出し、極東に紙幣の洪水を起させて、極度に暴落させた後にこれを回収するのではないかとの噂が頻りと流布されている。

è  露貨暴落事情 (1920 (大正9).3.31 「大阪朝日新聞」)

 

近頃のロシア通貨の相場漸落は日を逐ってはなはだしく、4月上旬には100円に対して2万5千ルーブル台であったものが、中旬には3万ルーブル台を越え、下旬になると4万2千ルーブルとなった。 各商店がルーブルによる取引を危険視していた矢先、ヴラヂヴォストクで最大の商店で百貨店のクインストおよびチューリンでは、棚ざらえを口実にして一時休業し、事実上 「円」 建ての商売を開始したところ、ほかの一般商店も追随しはじめて、今では全ての商店で日本通貨 (朝鮮銀行券) を要求するようになった。 ロシア通貨での購入者には、「円」 を建前として日々の決算によって売買しつつある。 一昨年 (1918年) の日本軍のシベリア出兵当時には、軍票を流通させようとしたが成功しなかった。 それが今では状況が変って、ロシア通貨が大暴落した結果、期せずしてロシア人の間で日本通貨 (朝鮮銀行券) を歓迎するようになったことは注目に値する。

è  浦塩邦貨幣流通 (1920 (大正9).5.6 「大阪毎日新聞」)

 

1920年3月29日、ロシア共産党極東委員会会議は、沿海州自治会臨時政府に対して政権を極東全州へ広げることをすすめる決議を採択し、4月2日から始まった沿海州勤労者大会で臨時政府承認が採択された。 沿海州自治会臨時政府は 「労農派と妥協し、「極東政府」 の名の下に各政派を連合し、新たに政府を組織」 することになり、また立法機関として国民会議が新設された。 その年の6月にはヴラヂヴォストクで国民会議の選挙が行われ、諸政派による連立政府 「極東臨時政府 Временное Правительство Дальнего Востока 」 が組織され、ボリシェヴィキの強い影響下に、その首班には沿海州自治会のA.S.メドヴェーヂェフが就いた。

この時期には、沿海州駐屯の日本軍全部隊による、ヴラヂヴォストクやハバロフスクなどの沿海州各都市での過激派部隊の大規模な武装解除 (浦塩事変 1920.4.4〜4.8)、ヴェルフネウヂンスクでの極東共和国の成立 ( 1920.4.6、首班A.M.クラスノシチョコフ Александр Михайлович Краснощёков )、サハリン州ニコラエフスクでの所謂 「尼港事件」(1920年5月、パルチザン部隊によって日本軍守備隊、領事館員、在留日本人が多数惨殺された)、ザバイカル州チタでの日本軍と極東共和国人民革命軍の度重なる武力衝突 (第五師団ハ四月ヨリ五月ニ亘リチタ附近ニ於テ西方ヨリ前進スル敵ニ対シ交戦数十回) と停戦交渉 (ゴンゴタ停戦交渉 1920.5.24〜7.15) などの重大事変が立て続けに起きている。

 

ヴラヂヴォストクにおける通貨改革

ヴラヂヴォストクの極東臨時政府は、ロシア通貨が暴落していることに対処するため、政権発足当時より通貨の改造を計画していたが、このたび新通貨発行の準備ができ、次のような6月5日付の通貨改革令を発布した。

  • 極東臨時政府は、十月革命前に ケレンスキー政府がアメリカン・バンクノート社に印刷を発注していた旧型紙幣、総額1億5000万ルーブルを発行する。

  • 紙幣の額面は、50コペイカ、25ルーブル、100ルーブルの3種類とする。 それ以外の額面の紙幣を発行する場合には、その都度特別認可によって発行する権限が付与される。 新紙幣は臨時政府の全財産によって、差し当っては約70,860,000金ルーブル相当の金・銀・プラチナによって保証する。

  • 現在流用している通貨のうち、ロマノフ紙幣およびケレンスキー紙幣を除く全ての通貨、すなわち シベリア紙幣 や国庫債券などは、総て10日間の期間内に新紙幣と無制限に引換を行う。 この引換期限後は全部無効とする。

  • 引換率は、シベリア紙幣200ルーブルに対して新紙幣1ルーブルとする。

è  法令 352 「国家信用券の発行および現在流通している代用通貨との引換について」

この臨時政府の通貨改革の目的は、要するにシベリア紙幣の改廃を断行することにあり、ソヴェト政府との合意が為されているとのことである。

なお、ヴラヂヴォストクでは、新紙幣の準備の都合上、6月8日より交換を開始する。 また、外国関係においては、この法令の規定に関係なく、別途に協定を結びたいとのことである。

è  浦潮の通貨改革 (1920 (大正9).6.8 「大阪朝日新聞」)

この臨時政府の通貨改革に対しては、ヴラヂヴォストクの経済界は混乱し、日本をはじめとする外国企業や領事団から強い反対があった。 臨時政府に引換期限延期交渉の協議のため、各国領事団は7日に日本総領事館で領事団会議を開くことにした。

è  通貨改正令実行 (1920 (大正9).6.9 「時事新報」)

è  幣制改革後の浦塩 (1920 (大正9).6.19 「大正日日新聞」)

外国人の手持紙幣は国立銀行など定められた銀行へ登録するものとされ、登録の期限は7月2日より10日とされた。 登録期日を更に延長すること、および登録した旧通貨は登録者が希望すれば随時旧通貨での払い戻しを行うことを約束させた。

è  露貨協定成立 (1920 (大正9).7.17 「大阪朝日新聞」)

 

6月1日の閣議でザバイカル州からの撤兵が決定されたことを受けて、第五師団 (チタに駐屯) は8月16日にチタを撤退し、20日にザバイカル州からの撤退が完了した。 9月2日には、チェコスロヴァキア軍団最後の梯団1,250名がヴラヂヴォストクを出航した。 9月10日の閣議でハバロフスク撤退が決定され、10月21日にハバロフスクからも撤退し、日本軍の駐屯地は 「尼港事件保障占領」 の北樺太、尼港 (ニコラエフスク) と、ヴラヂヴォストク付近だけになった。

1920年11月末に、ヴェルフネウヂンスクの極東共和国臨時政府がチタに移ると、ヴラヂヴォストクの国民会議はチタの政府を承認し、極東臨時政府 (浦塩臨時政府) を解体して沿海州をチタの政府の統轄下に置くことを決め、12月にはヴラヂヴォストクに極東共和国沿海州庁 Приморское областное управление ДВР ができた。 これによって、ヴラヂヴォストクに親日政権を樹立するという、日本側の目論見は完全に潰えてしまった。

 


 

1921年5月26日、日本軍の支持もしくは黙認のもとに、ヴラヂヴォストクで反革命勢力によるクーデターが起こり、メルクーロフ兄弟 братья С.Д. и Н.Д. Меркуловы の 「沿アムール臨時政府 Приамурское временное правительство 」 が樹立された。 また、日本と極東共和国の間で、日本軍のロシア極東からの撤兵と通商に関する協定を締結するための交渉が、満洲の大連で1921年8月26日から開始された (大連会議)。

 

ヴラヂヴォストク ― 1921年

日本軍のシベリア出兵以来、ロシア極東では朝鮮銀行券 (円貨) が漸次勢力を拡大しており、1921年の秋には約500万円の朝鮮銀行券が極東地方の住民の間に深く浸透し、経済活動において 「朝鮮銀行券万能」 の状態になっている。 しかし、日本軍のヴラヂヴォストクからの撤兵が現実的なものになってくると、撤兵後の朝鮮銀行券の処遇について考えておかなければならない。 一時に朝鮮銀行券を市場より引き揚げようとすれば、不安定なヴラヂヴォストク経済をさらに混乱させるばかりである。 今すぐには対策をとらないにしても、日本軍の撤退後の経済的な基盤整理のためには、通貨の整理に着手せざるをえないことは分かりきっていることである。 その場合、朝鮮銀行券の流通範囲を徐々に制限するような政策を採って、ヴラヂヴォストク経済に対する朝鮮銀行の影響力を縮小していかなければならない。 そのためには、何等かの協定を結んでおく必要があるとの意見もあり、この問題を大連会議の議題の一つ取り上げることを望んでいる経済人も多い。

è  西伯利撤兵と鮮銀券 (1921 (大正10).9.23 「大阪時事新報」)

 


 

1921年の末から1922年初めにかけて、沿アムール臨時政府軍は再び北上し、一時ハバロフスクを占領するが、極東共和国人民革命軍に反撃された。 日本と極東共和国の間で行われていた大連会議は、撤兵期限の明示についての意見の決定的な対立などから、1922年4月16日に決裂した。 高橋是清内閣の後を受けて1922年 (大正11年) 6月12日に成立した加藤友三郎内閣は、6月23日の閣議で、シベリアからの撤兵を決定した。 これは翌24日に臨時外交調査会で承認され、11月1日までに極東から撤兵することを宣言した。 この撤兵表明によって、日本と極東共和国との交渉再開の機運がうまれ、開催地を長春に移して9月4日から会議が開かれたが、協定をみないまま9月25日に決裂した。

 

ヴラヂヴォストク ― 1922年

海外へ進駐した日本軍の現地での軍費支払などの財務処理は 朝鮮銀行 が日本政府から委託されて行っていた。 シベリア出兵で日本軍が駐屯した地域は 「軍事占領地」 ではなかったので、軍票やこの朝鮮銀行が発行する兌換紙幣 (円貨) の流通を強制したり、公納金や鉄道運賃などに収納させたりすることはできなかったが、 朝鮮銀行券はロシア極東で在留日本人社会のみならずロシア人たちの間でも広く流通した。 極東共和国の 緩衝紙幣 がその価値の下落のため流通市場で使用されなくなった後のヴラヂヴォストクを中心とする沿海地方では、この朝鮮銀行券と、帝政時代に製造された金属貨幣 (金貨・銀貨・銅貨) が主要な通貨になっていた。

1922年5月当時、極東共和国ではロシア連邦共和国にならって、国立銀行の金買入価格を基にした 「金ルーブル」 を計算単位として採用しており、官庁・国家機関に対する支払いで朝鮮銀行券または帝政時代の銀貨を使用するときは、極東共和国政府が時々に公定する金ルーブルとの換算相場によって行われた。 金ルーブル対円の換算相場は毎週公定されることになっていたが、ここ暫くは1金ルーブルが1円4銭〜1円10銭であった。 また、一般の私的な商取引では、朝鮮銀行券と金貨 (ロマノフ金貨) は公定相場によることなく流通したが、銀貨は1金ルーブルに対し2ルーブル60コペイカほどの相場で流通した。

è  最近の浦塩経済 (二) (1922 (大正11).5.30 「満州日日新聞」)

 

日本のシベリア派遣軍は1922年8月26日から帰還を開始し、10月25日に最終部隊のヴラヂヴォストク出港とともに撤兵が完了した。 それに代って、ヴラヂヴォストクには極東共和国人民革命軍が入った。 1922年11月15日、緩衝国家としての役割を終えた極東共和国は、ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国に合同した。

 


 

ヴラヂヴォストク ― 1923年

1923年の夏、ロシア極東では帝政時代の銀貨が自由に流通していた。 ただ、その絶対額は不足しており、他の地域との商業取引に多大の不便があった。 また、朝鮮銀行券はこの地域の住民の間で最も信用のある通貨であり、日本のシベリア派遣軍が撤兵した後も、総額400万円以上 (1千万円とも) の朝鮮銀行券が流通しているものと考えられている。 日本軍撤退後の極東地方における通貨の整理に着手する必要に迫られていたヴラヂヴォストクおよびモスクワの金融当局は協議の結果、この問題を解消するには、1922年10月11日に発行が開始され現在ロシアで最も健実な通貨である新しいソヴェト貨幣 (チェルヴォネツ) を極東地方に流通・普及させることが適切であるとの結論に達した。

沿海地方の通貨制度統一を急務とするヴラヂヴォストクの政庁は、チェルヴォネツの流通を強制する手段として、ヴラヂヴォストクを中心とするロシア領域内で外国貨幣の流通を禁止すると共に、外国銀行の営業を許可しないこととし、この地域で流通する朝鮮銀行券についても、1923年7月15日までに金に兌換する必要がある旨を宣示した。 しかし、その処置に対して、一般のロシア住民や事業家などからも反対の声があがり、外国貨幣禁止令を実行することは不可能な情勢になった。

è  鮮銀券無事流通 (1923 (大正12).6.21 「中外商業新報」)

 

沿バイカル地方およびザバイカル地方では、1923年7月15日からチェルヴォネツを流通させたが、ヴラヂヴォストクでは外国貨幣、特に朝鮮銀行券との関係が深く、それほど簡単なことではない。 一時に朝鮮銀行券を廃止・回収しようとしても、それは却って不安定なヴラヂヴォストクの商業・経済をさらに混乱させるだけであるので、 ヴラヂヴォストクでの朝鮮銀行券などの外国貨幣の流通廃止は今後の問題として、チェルヴォネツが流通してからの状況を見てから、外国貨幣流通の是非について決定することにした。 対外貿易などで金や外国貨幣が必要なときは、随時チェルヴォネツをその日の証券取引所の相場によって金や外国貨幣と交換することにした。

è  労農政府の極東通貨政策 (1923 (大正12).7.20 「東京朝日新聞」)

 

1923年の秋、ヴラヂヴォストクの財政部はチタの政庁より、 極東地方においても、1923年8月3日付労農内閣通貨令を10月1日から、いよいよ実施する旨の伝令を受けた。 この法令によれば、「10月以降はソヴェト紙幣をその日の換算率によって流用し、国立銀行券 (チェルヴォネツ) を各官庁、租税支払、税関、鉄道支払にも流用する。 各官庁は国外の企業との取引の場合を除いて、外国貨幣での取引支払を一切禁止すること」 になっていた。 このようにして、朝鮮銀行券の流通は禁止されたが、そうなると官庁などへの支払に際してロシア通貨を入手する必要を生じてきた。 また、ヴラヂヴォストクでは営業税が高率であることに関連して、在留邦人やロシア人の商店・商会などで閉鎖するもが続出してきた。

è  新通貨令実施 (1923 (大正12).10.3 「大阪朝日新聞」)

 


 

ヴラヂヴォストク ― 1924年

1923年の夏以来、ヴラヂヴォストクを中心とする沿海地方での外国貨幣の流通を再三禁止しているにも関わらず、1924年になっても一向に実効がない。 沿海地方一帯で流通してる朝鮮銀行券の額は概算600〜700万円に達しており、預金などの経済的見地から計算すると約1,200〜1,300万円になる。

è  沿海州鮮銀券禁止再燃 (1924 (大正13).2.24 「東京朝日新聞」)

 

チェルヴォネツ は安定した通貨として、極東地方においても流通市場に定着し、朝鮮銀行券などの外国貨幣を次第に駆逐しはじめた。 1924年12月、沿海州執行委員会は中央政府極東革命執行委員会の規定に基づいて、外国貨幣の流通および取扱いに関して次のような命令を発布した。 「何人に対しても外国貨幣を所有することは禁止しないが流通することは禁止する。 国立銀行その他特定の金融機関において売買が許可された外国貨幣を所有する各営業者は、これらの金融機関に所有する外国貨幣を当座預金として預金し、輸出入に対する決算の際にて、その金融機関において両替したうえで、これを行使すること。 外国貨幣現金で直接売買することを厳禁する。」

è  外国貨幣流通禁止 (1924 (大正13).12.10 「大阪毎日新聞」)

 


 

1917年の革命に前後するロシアの混乱と激動の時代の貨幣流通事情を解明することを目的としている本稿では、 国内戦が終って戦時共産主義の体制から 「新経済政策 (ネップ)」 へ移行する頃まで、極東地方においては日本の軍事干渉 (シベリア出兵) が終結するまでが、その対象となっているが、ロシア極東における 「通貨干渉戦争」 の先鋒としてシベリア出兵に深くかかわっていた 朝鮮銀行 のロシアからの撤退の経緯 (通貨干渉戦争の終結) について、いま少し説明を加えたい。

1917年 (大正6年) の十月革命でロシアにソヴェト政権が成立して以来、日本とロシアの間の国交は久しく途絶えていたが、1925年 (大正14年)1月20日に日ソ基本条約が北京で締結され、日本とソヴェト連邦の間の国交が樹立された (批准は2月25日)。

 

《補 記》 朝鮮銀行ヴラヂヴォストク支店の終焉 ― 「浦塩鮮銀問題」

朝鮮銀行は日本統治下の朝鮮に設けられた植民地中央発券銀行であったが、日本の大陸政策に応じて、満洲、シベリア、華北などに数多くの店舗を設け、「円」 通貨圏拡張のため広範囲に帝国主義的金融活動を行っていた。

ロシア極東のヴラヂヴォストクに朝鮮銀行の支店が開設されたのは、ロシアがまだ帝政であった1916年 (大正5年) のことである (十八銀行より浦塩支店を譲渡)。 当時は、第四回日露協約が締結 (1916.7.3) されるなど、日露関係がもっとも親善な時期であった。

日本のシベリア派遣軍とともに占領地へ進出し、現地での軍費仕払その他の財務処理を行っていたロシア極東各地の朝鮮銀行出張所は、日本軍の撤退に伴って漸次閉鎖されたが、ヴラヂヴォストク支店のみは日ソ基本条約の締結 (1925.1.20) の後も、ソヴェト連邦の国内で唯一の外国銀行として業務を続けていた。 しかし、外国銀行の存在はソヴェト連邦の経済・財政政策に両立しないことから、1930年 (昭和5年) 12月17日に朝鮮銀行ヴラヂヴォストク支店はソヴェト政府より閉鎖を命じられ (浦塩鮮銀問題)、翌1931年に支店閉鎖が決定された。

è  「浦塩鮮銀問題」 の経緯

 


極東共和国の緩衝紙幣      はじめに

 

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極東共和国の緩衝紙幣 / 通貨干渉戦争始末 (シベリア出兵と朝鮮銀行券)

《トピック》 アムール河の波 / ロシア革命の貨幣史


《解 説》 1918−22年、シベリアの社会・政治情勢 
シベリア争乱、1918−1920年 / チェコスロヴァキア軍団事件 / シベリア出兵 / 極東共和国