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ロシア革命の貨幣史  (シベリア異聞)

 

朝鮮銀行 (朝鮮銀行券)

 

日本の韓国併合直前の1909年に、韓国銀行条例(韓国法)に基づき、大韓帝国の中央銀行として韓国銀行が設立された。  併合後の1911年、朝鮮銀行法(日本法)に基づく特殊銀行として、韓国銀行は朝鮮銀行と改称され、日本政府の保護を受けて、金貨または日本銀行券との兌換が保証されている朝鮮銀行券を発行した。

朝鮮銀行券 (壹圓券)  朝鮮銀行券 (壹圓券)
朝鮮銀行券 (壹圓券)

図版は 「日本銀行調査局 編 『図録 日本の貨幣 8』 東洋経済新報社、昭和50年4月 」 より転載

紙幣上の表記は日本語 (漢字) と英語である。 兌換文言などが仮名混じりの 「日本語」 であることに、この紙幣が発行された政治背景・境遇を読み取ることができる。

 

朝鮮銀行は、日本統治下の朝鮮の中央発券銀行として、朝鮮銀行券の発行、国庫事務、朝鮮総督府に対する資金の貸付業務および朝鮮事業公債の引受け、普通銀行に対する資金調節、朝鮮産金の吸収などを基本業務としたほか、民間の普通銀行と同様な融資や手形割引、為替などの普通銀行業務も行っていた。 また、日本の大陸政策に対応して、満洲、シベリア、華北などに数多くの店舗を設け、「円」 通貨圏拡張の役割を果たした。 さらに、日本軍とともに占領地へ進出し、現地での軍費仕払その他の財務処理を日本政府より委託されるなど、広範囲に活動していた。

日本の領土である朝鮮に、日本銀行以外に中央銀行を設け、日本銀行券の流通を図らずに 「朝鮮銀行券」 を発行する理由として、1911年 (明治43年) の第二十七回帝国議会における 「朝鮮銀行法案」 の審議で、3月7日の衆議院委員会における質問および同月19日の貴族院特別委員会における質問に対する回答として、朝鮮総督府度支部長は次のように述べている。
「日本銀行ト云フモノハ其兌換券ノ基礎ヲ確実ニシテ行カナケレバナラヌ、兌換券ノ基礎ニ動揺ヲ来タスヤウナコトハ成ルベク防ガナケレバナラヌ、然ルニ朝鮮ノ情態ヲ見ルト内地ト異ツテ経済ノ基礎ガ確実デ無イ、何カ事ガアレバ動揺ヲ免レナイ、況ヤ朝鮮ハ国境ニアル、何カ事アレバ忽チニ経済上ノ変動ヲ生ズルコトハ免レナイ、左様ナ場合ニ於テ若シ日本銀行ノ兌換券ヲ以テ通用サセルナラバ、斯ル場合ニ日本銀行ノ兌換券ノ基礎ニ動揺ヲ来タシ経済上ニ影響ヲ来タシハシナイカ、サウスルト非常ニ日本銀行ノ基礎ニ動揺ヲ来タスト云フヤウナコトガ起ルカラ、特ニ朝鮮ニハ特別ナ銀行ヲ置イテ特別ノ兌換券ヲ発行シテ行クコトニシタノデアル、 ・・・」
つまり、「国境に起こる事変によって日本銀行の基礎が動揺することがないように、朝鮮銀行を設立して兌換券を発行させる必要」 があったのである。

 

日露戦争後に日本の勢力下に入っていた南満洲では、朝鮮銀行券が 1917年 (大正6年) に強制通用力を付与されたが、満洲北部やロシアのシベリア・極東でも、ロシア革命後の混乱期に通貨としての流通力を漸次失っていったロシア紙幣 (ルーブル紙幣) に代わって、朝鮮銀行券 (金円) が実質的に唯一の信用力のある通貨になった。

勅令第17号 (1917年11月28日公布)
朝鮮銀行ノ発行スル銀行券ハ関東州及南満洲鉄道付属地ニ於テ公私一切ノ取引ニ無制限ニ通用スルモノトス
 附則
本令ハ大正6年12月1日ヨリ之ヲ施行ス

第一次大戦が勃発すると、日本の対ロシア関係取引は連合国援助のため軍需物資および生活必需物資の供給拡大によって急増した。 朝鮮銀行はロシア沿海州のヴラヂヴォストクへの出店を大戦の開始直後から計画していたが、「露国ハ外国銀行支店ノ設置ヲ許可セサル方針」 を執っていたため、 1916年3月6日、ヴラヂヴォストクにおいて株式会社十八銀行が経営していた松田銀行部 (1907年(明治40年) に松田庄三郎頭取の個人名義として実質的な支店を開設) を買収して事実上の支店とし、対ロシア金融に資するとともに、チタから満洲北部を横断しヴラヂヴォストクに至る中東鉄道を通じてヴラヂヴォストクに運搬される満洲輸出品の金融に当った。 当初朝鮮銀行は松田銀行部の名称をそのまま使用して営業していたが、「オムスク政府より同行 (朝鮮銀行) に対し支店設置を許可し来り我政府又之を承認するに至り」、1919年12月1日にヴラヂヴォストク支店 (浦塩斯徳支店) が設立された。

シベリア出兵当時 (1918〜22年)、北満方面には、哈爾賓 (ハルビン) の支店のほか、派出所を満洲里およびチタ (哈爾賓支店直轄) に、出張所を斉々哈爾 (チチハル) と海拉爾 (ハイラル) に置き、また、ロシア極東方面には、ヴラヂヴォストク支店のほか、師団経理部付属交換所をウスリー鉄道沿線のハバロフスク、イマン、スパスカヤに、巡回交換所をビキン、ウスリー、シマコフカの3か所に設けて、 軍票 や朝鮮銀行券とルーブル紙幣との交換、荷為替、その他一般銀行業務を行っていた。

シベリア出兵に際して派遣軍が使用した朝鮮銀行券の額は、護送分 (1918年(大正7年)8月〜1920年9月) 2,530万円、部隊携行分228万円余、合計2,758万円余に及び、軍票の実際に使用された額1,143万円 を上回った。 (このほか、かなりの額の日本銀行券、補助貨幣、金貨が護送あるいは携行されている。)

 


 

大正8年様式の朝鮮銀行小額仕払手形

シベリア出兵当時のロシア極東では、低額面の補助紙幣が極端に不足していた。 そこで、1919年 (大正8年) に朝鮮銀行は、地域のロシア住民にも日本の貨幣単位を馴染ませるため、朝鮮銀行券の低額面補助紙幣である10、20および50銭の小額仕払手形の様式を改め、ロシア語を併記した大正8年様式の 「朝鮮銀行小額仕払手形」 を発行した。

朝鮮銀行小額仕拂手形
(拾錢券)  朝鮮銀行小額仕拂手形
(拾錢券)
大正8年様式 朝鮮銀行小額仕拂手形 (拾錢券)

図版は 「日本銀行調査局 編 『図録 日本の貨幣8』 東洋経済新報社、昭和50年4月 」 より転載

大正8年様式の小額仕払手形の表面には、日本語で発行銀行名 (朝鮮銀行)、「朝鮮銀行仕拂金票」 の額号と兌換文言 「此券引換ニ在満洲各店ニ於テ日本通貨相渡可申候」、発行年 (大正八年十月二十日)、印刷所名 (朝鮮総督府印刷) が表記され、裏面には、英語表記の発行銀行名 (The Bank of Chosen)、ロシア語による額号 (Бон Циосен Банка)、中国語と英語とロシア語による兌換文言 (ロシア語表記は "Обменивается на Японскую Монету в Отделениях Банка в Маньчжурии") が記載されている。

大正8年様式朝鮮銀行小額仕払手形には、発行年が大正8年 (1919年) 10月20日と表記されているが、実際に発行を開始した年月日は、10銭券は大正8年5月1日、20銭券は大正9年1月1日、50銭券は大正8年10月20日であった。

これらの小額仕払手形を先駆けとして、朝鮮銀行券は北満から中東鉄道沿線、沿海州からシベリア鉄道沿線、ザバイカル州チタ方面にまで、日本軍の進攻とともに漸次浸透していき、価値の下落によって信用を失墜したロシア通貨の代わりに現地に受け入れられていった。 1920年末には、「円」 は事実上の沿海地方における基本通貨単位となり、貿易決済や商取引のみならず、ロシア住民の預金にも使用されるようになった。 また、ロシア官憲でも 「円」 による公定相場での国庫収納を認可した。 1921年中頃には、「円」 はその土地の 「ロシア化した」 貨幣単位 (местная «обрусевшая» валюта) 」 と見られるほどに、地域社会に溶け込んでいった。

 


 

シベリア派遣軍の撤兵に伴って、ロシア極東各地の出張所は閉鎖されたが、ヴラヂヴォストク支店のみは日ソ基本条約の締結 (1925.1.20) の後も、ソヴェト連邦の国内で唯一の外国銀行として業務を続けていた。 しかし、外国銀行の存在はソヴェト連邦の経済・財政政策に両立しないことから、1930年 (昭和5年) 12月17日に朝鮮銀行ヴラヂヴォストク支店はソヴェト政府より閉鎖を命じられ (浦塩鮮銀問題)、翌1931年に支店閉鎖が決定された。

è  「浦塩鮮銀問題」 の経緯

 

第二次大戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の命令 「外地並びに外国銀行及び戦時特別機関の閉鎖に関する覚書」(1945年9月30日) により、大蔵、内務、外務、司法共同省令第1号 (1945年10月26日) によって朝鮮銀行は閉鎖機関に指定され、解散した。 米ソ両軍政府によって接収された朝鮮にあった朝鮮銀行の資産は、後にその一部が韓国銀行 (大韓民国の中央銀行) および朝鮮中央銀行 (朝鮮民主主義人民共和国の中央銀行) に払い下げられ、 日本国内の残余資産により日本不動産銀行 (後の日本債券信用銀行、現在は 「あおぞら銀行」) が設立された。

 


 

 

年 表

この年表の 「朝鮮銀行」 に関する項は、『朝鮮銀行史』 (朝鮮銀行史研究会 編、東洋経済新報社、昭和62年) より抜粋 (一部修正) した。
 

1909年7月26日
(明治42年)

 

日韓両国政府間に韓国中央銀行設立に関する協定成立。
韓国銀行条例発布。
 

1910年8月22日
(明治43年)

 

「韓国併合ニ関スル条約」 に基づいて、日本が韓国を併合する。
 

8月29日
 

 

朝鮮総督府が設置せらる (勅令第319号 「朝鮮総督府設置ニ関スル件」)。
 

1911年3月28日
(明治44年)

 

法律第48号を以て 「朝鮮銀行法」 発布さる。
 

8月15日
 

 

勅令第203号により 「朝鮮銀行法」 施行され、朝鮮銀行と改称す。
 

1914年7月25日
(大正3年)

 

第一次大戦勃発 (オーストリア、セルビアに宣戦布告)。
 

8月2日
 

 

ロシア、ドイツに宣戦布告。
 

1916年7月15日
(大正5年)
 

 

ハルビン支店を開設。
 

1917年3月12日
(大正6年)

 

ロシアで帝政政府が倒壊し、国会が臨時委員会を設立。 ペトログラード労働者代表ソヴェト成立 (二月革命)。
 

11月7日
 

 

ロシアでボリシェヴィキが武装蜂起 (十月革命)。
 

11月27日
 

 

当行発効の銀行券は爾今関東州及び南満洲鉄道付属地に於て公私一切の取引に無期限に適用の旨勅令を以て公布せらる。
 

12月27日
 

 

日本銀行と同行の満洲に於ける国庫事務取扱に関する代理契約を締結。
 

1918年1月1日
(大正7年)

 

満洲に於て帝国国庫金取扱事務開始。
 

8月2日
 

 

日本政府、シベリアへの出兵 を告示。
帝国軍隊のシベリア派兵に伴いロシア極東及び北満洲に於て臨時国庫事務取扱を開始。

引用資料 『朝鮮銀行史』 の原文では 「帝国軍隊の西シベリア出兵に伴い西シベリア及び北満洲に於て臨時国庫事務取扱を開始。」 となっているが、「西シベリア出兵」、「西シベリア」 は間違い。
 

8月11日
 

 

日本陸軍第十二師団の先遣部隊、ヴラヂヴォストクに上陸。
 

9月5日
 

 

日本陸軍第十二師団、ハバロフスクを占領。
 

9月17日
 

 

露領沿海州ハバロフスクに派出所を開設。
 

9月18日
 

 

日本軍、ブラゴヴェシチェンスクを占領。
 

9月23日
 

 

満洲里にハルビン支店派出所を開設。
 

9月24日
 

 

露領沿海州スパスカヤに臨時派出所を開設。
 

10月17日
 

 

露領後貝加爾州チタにハルビン支店派出所を開設。
 

11月11日
 

 

ドイツ降伏し、世界大戦終わる。
 

11月18日
 

 

チチハルにハルビン支店派出所を開設。
 

11月23日
 

 

露領黒龍州ブラゴヴェシチェンスク派出所を開設。
 

1919年2月5日
(大正8年)

 

ヴラヂヴォストク支店開設・松田銀行部存置の件朝鮮総督より認可せらる。
 

7月9日
 

 

沿海州スパスカヤ派出所閉鎖。
 

11月10日
 

 

コルチャーク政府の閣僚たち、オムスクを撤退し、イルクーツクへ逃亡。
 

12月1日
 

 

ヴラヂヴォストク支店を開設。
 

1920年4月6日
(大正9年)

 

極東共和国、A.M.クラスノシチョコフを首班とする臨時政府がヴェルフネウヂンスクに成立。
 

8月13日
 

 

チタ派出所を撤廃。
 

8月26日
 

 

満洲里派出所を撤廃。
 

8月31日
 

 

チチハル派出所を撤廃。
 

9月14日
 

 

北樺太亜港派出所設置の件朝鮮総督の認可を受く。
 

9月20日
 

 

中央金庫亜港派出所に於ける現金保管出納取扱に関し日本銀行と契約締結の件、朝鮮総督の認可を受く。
 

9月24日
 

 

北樺太亜港派出所を出張所として開設すべき旨朝鮮総督の命令を受け同日営業を開始。
当行に於て事務取扱の委嘱を受けたる中央金庫亜港派出所を開設。
 

10月11日
 

 

ハバロフスク派出所を撤廃。
 

10月17日
 

 

スパスカヤ貨幣交換所を開設。
 

11月1日
 

 

セレンガ川、バイカル湖から太平洋に至る極東ロシア領を統一した 「極東共和国」 が成立。
 

1922年6月20日
(大正11年)

 

ヴラヂヴォストク松田銀行部を閉鎖。
 

6月24日
 

 

日本政府、11月1日までに極東から撤兵することを宣言。
 

8月21日
 

 

スパスカヤ貨幣交換所を撤廃。
 

9月5日
 

 

ニコリスク貨幣交換所を撤廃。
 

10月25日
 

 

日本のシベリア派遣軍、撤兵完了 (最終部隊、ヴラヂヴォストク出港)。
 

11月15日
 

 

極東共和国、ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国に合同。
 

12月30日
 

 

ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、ザカフカスの各ソヴェト共和国の代表、「ソヴェト社会主義共和国連邦」 の成立を確認。
 

1925年1月20日
(大正14年)

 

日ソ基本条約の締結。
 

5月15日
 

 

亜港派出所並びに当行に於て事務取扱の委嘱を受けた日本銀行亜港代理店を廃止。
 

1930年8月12日
(昭和5年)

 

ヴラヂヴォストク支店、ソ連官憲の検査を受ける (「浦塩鮮銀問題」 の勃発)。

è  「浦塩鮮銀問題」 の経緯
 

1931年7月15日
(昭和6年)

 

ヴラヂヴォストク支店を廃止。

 

 


 

[参考文献]

  • 日本銀行調査局 編 「図録 日本の貨幣 (第10巻) 外地通貨の発行 (1)」
    東洋経済新報社、昭和49年

  • 朝鮮銀行史研究会 編 「朝鮮銀行史」 、東洋経済新報社、昭和62年

  • 多田井喜生 「大陸に渡った円の興亡 (下) (第七章 朝鮮銀行券のシベリア進出)」、東洋経済新報社、1997年

 

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