《石光真清の手記》 A.N.アレクセーエフスキー
A.N.アレクセーエフスキーがボリシェヴィキと対立するエスエル (社会革命党) 右派の活動家であったこともあって 、彼に関する記録はロシア語の文献類にも極めて少ない。 その中にあって、アレクセーエフスキーと親交のあった関東都督府陸軍部嘱託 (軍事諜報員) 石光真清の手記は信憑性が高く、貴重である。 (以下の 緑色の部分 は、石光真清の手記 『誰のために』(中公文庫) より抜粋)
関東都督府は、関東州 (満洲) を管轄し、南満洲における鉄道線路の保護および取締りを管掌する。 石光真清 (左) とA.N.アレクセーエフスキー (右)
アレクセーエフスキーは、
貴族的な端正な長身 (P.204) であったという。
アレクセーエフスキーの政敵であり、アムール州執行委員会議長、ブラゴヴェシチェンスク・ソヴェト議長であったボリシェヴィクの F.N.ムーヒン は、彼の名で発布された声明の中で、アレクセーエフスキーの人柄を次のように述べている。
石光真清の手記によれば、アレクセーエフスキーの日本とのかかわりは次のようであった。
このことを、1918年9月21日に石光がアレクセーエフスキーを政庁に訪問したとき、アレクセーエフスキーは、
日露戦争当時の民主革命運動に自分が参画して危うく日本に亡命したことから、今日までの国内事情を説明して、次のような秘話を語っている。
ブラゴヴェシチェンスク市長アレクセーエフスキーのその後の足跡を 「石光真清の手記」 から拾い出してみる。 アレクセーエフスキーの留守中、ブラゴヴェシチェンスクでは、 1918年2月25日に行われた第四回アムール州農民代表大会で、権力のソヴェトへの移行と、州自治庁と市議会の解散が宣言された。 労農兵士代表州ソヴェト議長に選ばれたF.N.ムーヒンは、州長兼市長代理に政権の譲渡を要求した。 (P.117)
五月十日、前市長 (兼州長) アレキセーフスキーがペテログラードから赤旗翻るブラゴベシチェンスクに帰って来た。 同市長は前年の十二月レーニンがペテログラードに招集した第一回施政会議に出席のため、コザック民政長官カゼイウィニコフ、事務官ペトロフを連れて出張し、留守中チェルニヤークが代理市長を勤めていたのである。 この施政会議が終わってカゼイウィニコフとペトロフを先に帰し、自分だけ留まって大勢の推移を見定めていたのである。 彼が何も知らずにブラゴベシチェンスクの停車場に下車すると、労兵会員がまちかまえていて逮捕拘留してしまった。 その日、労兵会はさっそく彼を革命裁判に付した。 五月二十七日、判決言渡しの日である。 準拠すべき法もないから、裁判委員の話合いで判決を下すのである。 アレキセーフスキーの場合も、最初から懲役四年の刑を決定してあったから、裁判も判決言渡しもまったくの形式に過ぎなかった。 判決を言渡されたアレキセーフスキーは、一言も抗議を述べず穏やかに服罪した。 深く胸中に期するところがあったのであろう。 (P.207)
1918年9月9日未明、日本軍の先遣隊がブラゴヴェシチェンスクのアムール河対岸の町ヘイホー (黒河) に到着すると、ム−ヒンたちの革命派はブラゴヴェシチェンスクを撤退し、9月18日に日本軍はアムール河を渡河してブラゴヴェシチェンスクを占領した。
解放されたアレクセーエフスキーは政庁に復帰した。
ブラゴヴェシチェンスクに進駐した日本軍は 「占領軍」、「侵略軍」 として振舞い、日本軍将兵による不祥事件は続発した。
アレクセーエフスキーは次のように抗議している。
日本に亡命中に受けた好意にも報い得る日があると信じ (P.299)、日本の恩義をわきまえている (P.263) アレクセーエフスキーは、次第に日本軍に対する悪感情と不信感を強めていった。
これについて、石光は次のように語っている。
アレクセーエフスキーの政権は、深刻な資金難に見舞われた。
この三月にムーヒンが政権をとって一番先に困ったのは、農民や中国商人の反抗よりも、国立銀行の金塊が根こそぎコザックに持ち去られ、ホルワト政府に取りあげられたことであった。
この同じ苦しみを、アレキセーフスキー政府もまた発足と同時に悩まなければならなかった。
このように新政府が経済的に最初から破綻していても、日本をはじめ連合諸国は援助しようとしなかった。 (P.277)
ボリシェヴィキのアレクセーエフスキー排斥の宣伝工作が広くひろがってきた。
アムール州政府は経済的に破綻し、
あれほど人望のあったアレキセーフスキーさえ、ボリシェビキの宣伝工作によって排斥の声に圧倒されかかっていた。 (P.294)
二月十一日。
《補 記》 A.N.アレクセーエフスキーの消息 ― その後 ロシアの年代記・人名辞典サイト 「ХРОНОС」 の 「Алексеевский Александр Николаевич」 の項には、その後のアレクセーエフスキーの足跡が、次のように紹介されている。 1919年12月、アレクセーエフスキーはイルクーツクで地方自治・市会協議会議長を務めた。 1919年12月〜1920年1月のイルクーツクでの反コルチャーク蜂起に参加し、1920年1月には、逮捕されたA.V.コルチャーク (オムスク政府最高統治者) とV.N.ペペリャーエフ (オムスク政府首相) の特別予審委員会の委員に就任した。 В декабре 1919 г. - председатель совещания земских и городских гласных в Иркутске. Участник антиколчаковского восстания в декабре 1919 - январе 1920 гг. в Иркутске. Участвовал в Чрезвычайной следственной комиссии, по делу Колчака и Пепеляева, в допросах их лиц в январе 1920 г. 1920年4月26日、ヴラヂヴォストクで非ボリシェヴィキ勢力の指導者などから緩衝国家の設立に関連した情報を収集していた 「浦潮派遣軍付政務部長」 の松平恒雄 (外務参事官) は、 「前黒龍政府首班アレクセーフスキー」 から事情聴取している。 内田外務大臣への報告の中で松平政務部長は、アレクセーエフスキーは 「家族呼寄ノ為近々一応巴里ニ赴キ二ケ月許リ同地滞在ノ後帰還スル予定」 と述べている (外務省編纂 「日本外交文書」 大正九年第一冊下巻) が、その後の彼の消息は不明である。
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