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《石光真清の手記》

A.N.アレクセーエフスキー

 

Алексеевский, Александр Николаевич (1878‐1957)

A.N.アレクセーエフスキーがボリシェヴィキと対立するエスエル (社会革命党) 右派の活動家であったこともあって 、彼に関する記録はロシア語の文献類にも極めて少ない。 その中にあって、アレクセーエフスキーと親交のあった関東都督府陸軍部嘱託 (軍事諜報員) 石光真清の手記は信憑性が高く、貴重である。 (以下の 緑色の部分 は、石光真清の手記 『誰のために』(中公文庫) より抜粋)

関東都督府は、関東州 (満洲) を管轄し、南満洲における鉄道線路の保護および取締りを管掌する。
なお、アレクセーエフスキーの表記は、「石光真清の手記」 の中では アレキセーフスキー となっており、あえて表記を統一していない。


石光真清 (左) とA.N.アレクセーエフスキー (右)

 


 

アレクセーエフスキーは、 貴族的な端正な長身 (P.204) であったという。 アレクセーエフスキーの政敵であり、アムール州執行委員会議長、ブラゴヴェシチェンスク・ソヴェト議長であったボリシェヴィクの F.N.ムーヒン は、彼の名で発布された声明の中で、アレクセーエフスキーの人柄を次のように述べている。
「彼は学識深く高潔な人格者である。 このような人物はロシア広しといえども得がたい。」 (P.209)

石光真清の手記によれば、アレクセーエフスキーの日本とのかかわりは次のようであった。
これ (ロマノフ王朝の失政) を改善するために日露戦争の最中に、五、六名の同志と謀って画策中に官憲に探知され、逮捕寸前に支那ジャンクに乗ってアムール河を下り、ニコライエフスクに逃亡し、そこからサハレンに渡って日本の長崎に永い間亡命していた。 (P.204)

このことを、1918年9月21日に石光がアレクセーエフスキーを政庁に訪問したとき、アレクセーエフスキーは、 日露戦争当時の民主革命運動に自分が参画して危うく日本に亡命したことから、今日までの国内事情を説明して、次のような秘話を語っている。
「日露戦争当時に私の同志は悉く捕われて銃殺されました。 私だけは一九〇四年 (明治三十七年) 九月二十五日の夜十時に、ゼーア河に準備しておいた支那ジャンクに乗って一人で下流へ逃げました。 本当に着のみ着のままだったので、ニコライエフスクに着くまでの四十日間は、中国沿岸に碇泊して食物を乞い、衣類を貰い、金銭を恵まれるという全くの乞食旅行をしました。 ニコライエフスクに潜んでから、日露戦争終了後に貴国の札幌に亡命し、次に長崎に移りました。 ここで同志を得て 『新聞ウオリヤ』 を発行して多くの共鳴を得ました。 その間、西園寺公望伯爵と大隈重信侯爵から特別の保護と援助を戴いて暮すことが出来たのです。 私が貴国を去る時に、西園寺伯爵からは心強い激励の言葉を戴きました。 その後数年の間、米、英、フランス、ベルギーなどの諸国を流浪するうちに、世界大戦にあいましたので、混乱にまぎれてブラゴベシチェンスクに帰って、市民の推薦を受けて市長になったのです。 ・・・」 (P.262)

Благовещенск. 
Городская управа
ブラゴヴェシチェンスク市庁舎


 

ブラゴヴェシチェンスク市長アレクセーエフスキーのその後の足跡を 「石光真清の手記」 から拾い出してみる。
アムール州長兼ブラゴベシチェンスク市長のアレキセーフスキー、コザック民政長官カゼイウィニコフ、事務官ペトロフの三名は、レーニンの招請に応じて露暦十二月二十七日ペテログラードに開かれた第一回施政会議 (全ロシア憲法制定会議) に出席したまま、まだ帰らなかった。 市長代理には労兵会出身のチェルニヤークが就任し、民政長官の政務はアムール州会議長シシロフが当っていた。 (P.51)

アレクセーエフスキーの留守中、ブラゴヴェシチェンスクでは、 1918年2月25日に行われた第四回アムール州農民代表大会で、権力のソヴェトへの移行と、州自治庁と市議会の解散が宣言された。 労農兵士代表州ソヴェト議長に選ばれたF.N.ムーヒンは、州長兼市長代理に政権の譲渡を要求した。 (P.117)

五月十日、前市長 (兼州長) アレキセーフスキーがペテログラードから赤旗翻るブラゴベシチェンスクに帰って来た。 同市長は前年の十二月レーニンがペテログラードに招集した第一回施政会議に出席のため、コザック民政長官カゼイウィニコフ、事務官ペトロフを連れて出張し、留守中チェルニヤークが代理市長を勤めていたのである。 この施政会議が終わってカゼイウィニコフとペトロフを先に帰し、自分だけ留まって大勢の推移を見定めていたのである。 彼が何も知らずにブラゴベシチェンスクの停車場に下車すると、労兵会員がまちかまえていて逮捕拘留してしまった。 その日、労兵会はさっそく彼を革命裁判に付した。
五月二十二日、運命のこの日、早朝から興奮した市民の群が裁判所に押しかけた。 公判廷はたちまち鮨詰めになり、溢れた市民は場外に群れて成行きを憂え、立去る者はなかった。
定刻、アレキセーフスキーが法廷に貴族的な長身を現した。シュートキンが型の如く住所、姓名、年齢から始めて規定通りの尋問を終えてから、起訴状を読みあげた後、被告に発言を許した。 アレキセーフスキーは起って、実に三時間半にわたる大演説をした。
(中略)
この日の裁判はまるでアレキセーフスキーの演説会同様で、熱狂した市民は裁判所の内外を埋め尽してアレキセーフスキーの名を叫び、いつまでも立去らなかった。 (P.203〜204)

五月二十七日、判決言渡しの日である。 準拠すべき法もないから、裁判委員の話合いで判決を下すのである。 アレキセーフスキーの場合も、最初から懲役四年の刑を決定してあったから、裁判も判決言渡しもまったくの形式に過ぎなかった。 判決を言渡されたアレキセーフスキーは、一言も抗議を述べず穏やかに服罪した。 深く胸中に期するところがあったのであろう。 (P.207)

1918年9月9日未明、日本軍の先遣隊がブラゴヴェシチェンスクのアムール河対岸の町ヘイホー (黒河) に到着すると、ム−ヒンたちの革命派はブラゴヴェシチェンスクを撤退し、9月18日に日本軍はアムール河を渡河してブラゴヴェシチェンスクを占領した。 解放されたアレクセーエフスキーは政庁に復帰した。
九月二十日、アレキセーフスキーは政庁に関係団体会議を開いた。 この会議で満場一致で州長に選任され、直ちに政綱を発表した。 (P.261)
アレクセーエフスキーは、この政綱の中で、アムール州の独立を宣言している。

 


 

ブラゴヴェシチェンスクに進駐した日本軍は 「占領軍」、「侵略軍」 として振舞い、日本軍将兵による不祥事件は続発した。 アレクセーエフスキーは次のように抗議している。
鉄道は占有する、船舶は徴発する、国有の金塊を押収する、軍用貨物を戦利品として運び去る。 これでは、まるで日本軍はわれわれを敵として侵入したのだと判断しても間違いではありません。 (P.273〜274)

日本に亡命中に受けた好意にも報い得る日があると信じ (P.299)、日本の恩義をわきまえている (P.263) アレクセーエフスキーは、次第に日本軍に対する悪感情と不信感を強めていった。 これについて、石光は次のように語っている。
日本軍に対する期待が大きかっただけに、アレキセーフスキー州長の日本軍に対する悪感情と市民の不信の念は、次第に深刻になり露骨になった。 日本兵とロシア市民は風俗も違い習慣も異なり、誤解も起りがちであるが、第三者の立場に立って冷静に判断すると、風習のちがいばかりでなく、日本兵士は礼儀をわきまえず粗暴な行動が多く、これに加えて日本人特有の旅の恥はかき棄てという悪い習慣があらわれ易いのである。 (P.270) 元陸軍軍人であり、軍との深い関係があった石光の日本軍将兵に対する批判は辛辣である。

アレクセーエフスキーの政権は、深刻な資金難に見舞われた。 この三月にムーヒンが政権をとって一番先に困ったのは、農民や中国商人の反抗よりも、国立銀行の金塊が根こそぎコザックに持ち去られ、ホルワト政府に取りあげられたことであった。 この同じ苦しみを、アレキセーフスキー政府もまた発足と同時に悩まなければならなかった。 このように新政府が経済的に最初から破綻していても、日本をはじめ連合諸国は援助しようとしなかった。 (P.277)
当時日本軍からザバイカル州のセミヨウノフに月額五十万円、アムール州のガーモフに月額五万円、沿海州のカルムイコフに同じく五万円が支給されている程度で、州政府に対する援助は全くなかった。 オムスクのコルチャック政府には英仏両国から多額の資金援助が行われていた。 こんな状態であったから反ボリシェビキ軍さえ兵士の給料支払いに困難を感じていたし、アムール政府の窮乏はもっと深刻であった。 (P.278)
アムール政府は発足当初から孤立無援の状態で、すでに崩壊の危機をはらんでいたのである。 しかも僅かな銀行の準備金さえ日本軍に持ち去られた後は、まったくのカラッポであった。 アレキセーフスキーは応急の処置としてやむなく反対を押しきり、ムーヒンが印刷途中で中止して倉庫に放り込んであったムーヒンスキー紙幣の印刷を完了して発行した。 まことに妙なものだが、それよりほかに方法がなかったのである。 帝政時代のロマノフスキー紙幣や第一次革命のケレンスキー紙幣も流通していたが、それより幾分安くはあったが、どうやら肩をならべて通用した。 (P.278〜279)

 


 

ボリシェヴィキのアレクセーエフスキー排斥の宣伝工作が広くひろがってきた。 アムール州政府は経済的に破綻し、 あれほど人望のあったアレキセーフスキーさえ、ボリシェビキの宣伝工作によって排斥の声に圧倒されかかっていた。 (P.294)
アレクセーエフスキーは亡命する決心を固めた。 「ボリシェビキのムーヒンは、市民の血を流さないため静かに撤退しました。 私も静かに亡命するつもりです」 (P.294)

二月十一日。
ロシアと永遠に別れる日が来た。あれほど人気のあったアレキセーフスキーを送る市民の群はなく、馬車に投げる花束もなかった。 僅か十数人の見送り人が別れを惜しむに過ぎなかった。 ・・・
(中略) ・・・ 彼は祖国を愛し、コザックと農民を愛した。 ロマノフ王朝の虐政に抗して革命に青春を捧げ、その情熱はまだ胸にたぎっているのに、今は祖国を追われる身である。 (P.302)
石光は、ウラジオストックに着いてアレキセーフスキーを埠頭に送ったが、これが彼との永遠の別れになった。 (P.303)
アレクセーエフスキーの亡命先は、 「多分・・・・・・多分フランスに・・・・・・」 (P.300)

 


 

《補 記》 A.N.アレクセーエフスキーの消息 ― その後

ロシアの年代記・人名辞典サイト 「ХРОНОС」 の 「Алексеевский Александр Николаевич」 の項には、その後のアレクセーエフスキーの足跡が、次のように紹介されている。

1919年12月、アレクセーエフスキーはイルクーツクで地方自治・市会協議会議長を務めた。 1919年12月〜1920年1月のイルクーツクでの反コルチャーク蜂起に参加し、1920年1月には、逮捕されたA.V.コルチャーク (オムスク政府最高統治者) とV.N.ペペリャーエフ (オムスク政府首相) の特別予審委員会の委員に就任した。

В декабре 1919 г. - председатель совещания земских и городских гласных в Иркутске. Участник антиколчаковского восстания в декабре 1919 - январе 1920 гг. в Иркутске. Участвовал в Чрезвычайной следственной комиссии, по делу Колчака и Пепеляева, в допросах их лиц в январе 1920 г.

1920年4月26日、ヴラヂヴォストクで非ボリシェヴィキ勢力の指導者などから緩衝国家の設立に関連した情報を収集していた 「浦潮派遣軍付政務部長」 の松平恒雄 (外務参事官) は、 「前黒龍政府首班アレクセーフスキー」 から事情聴取している。 内田外務大臣への報告の中で松平政務部長は、アレクセーエフスキーは 「家族呼寄ノ為近々一応巴里ニ赴キ二ケ月許リ同地滞在ノ後帰還スル予定」 と述べている (外務省編纂 「日本外交文書」 大正九年第一冊下巻) が、その後の彼の消息は不明である。

 

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