ロシア革命の貨幣史

 

 

序. ロシアにおける金本位通貨制度の実施

 

è  金本位制に至るまでのロシアの貨幣制度沿革

Николай U (1894-1917) ロシアの金本位通貨制度は、1897年1月2日、皇帝 ニコライ二世 臨席のもとに召集された 財政委員会において決定された。 金本位制を基礎とする幣制改革は前皇帝アレクサンドル三世の時代に既に予定されていたが、 この改革に対してロシア国内には根強い反対があった。 特に、国内では高く国外では廉価な当時のルーブル相場のもとでの穀物輸出によって一種の 利鞘を得ていた大土地所有者や輸出業者は、不安定で価値の低落していた紙幣の保存に固執していた。 また、ロシアの金融市場に最も強い影響を及ぼしていたフランスでは金銀複本位制を採用していたが、 国際的な金銀比価の過激な変動のため、既に1876年8月5日に本位貨幣である5フラン銀貨の 自由造幣制を停止して、いわゆる 跛行金本位制 に移行しており、 その通貨には価値が甚だしく低落していた銀貨を大量に流通させていた。 そのためフランスは、同盟国たるロシアが金単一本位制になることを断じて希望しえない 事情におかれており、この問題に関して、ロシアに対し露骨なまでに干渉していた。

幣制改革を図る財務大臣 ヴィッテ は、政府の内と外の 激しい抵抗によって改革が成就する時期を逸することを恐れて、議会による正規の立法手続には依らず、 政府の信用操作の監視をその任とする財政委員会 (その委員および議長の任命は、 財務大臣であるヴィッテ自身の手中にあった) において、その当時はまだ彼に全面的信頼を寄せていた 専制君主ニコライ二世の勅令によって決着を付けたのである。 翌1月3日、幣制改革の法令が公布され、ここに金ルーブルがロシアの単一の基本通貨となった。

一時期、この幣制改革に当たっては、"ルース" というルーブルよりも小さな単位を作って これをルーブルに代えることも検討され、1895年には、15ルース (1インペリアル)、 10ルース (2/3インペリアル) および5ルース (1/3インペリアル) の3種類の ルース金貨 の試作さえも行われたが、 新しい単位を創ることで貨幣価値に大混乱を来たすことを恐れて、この改革ではルーブルが保存され、 ルースは採用されなかった。
〔参考文献〕 ヴィッテ著、大竹博吉監修 「ウィッテ伯回想録−日露戦争と露西亜革命・上」
(明治百年史25) 原書房、1972年

この新しい金ルーブルの価値は平価切下に基づいて決定されたものであり、新しい1ルーブルは 純金 17.424ドーリャ (0.774234g) を含有するものと定められたが、これは旧来のルーブル平価 の三分の二に等しい。

この幣制改革に先立って、政府の機構改革による国家予算の節減、輸入の抑制と輸出振興、 外国からの借款、国民に対する租税負担の増加などにより国庫の充実が図られ、その結果、 1890年には流通紙幣9億2800万ルーブルに対する金準備が4億7500万ルーブルであったものが、 1897年には流通紙幣10億6700万ルーブルに対し既に10億9500万ルーブルの金準備が蓄積され、 兌換制を実施し得るまでに準備が整えられた。

一方、1893年には国際的な銀価格の低落からルーブルを防衛するため、1839年以来 本位貨幣として造幣の自由が規定されていた1ルーブル銀貨の自由造幣制を廃止した。 そしてまた、各種金融為替を統制することによってルーブル相場の安定に努めた結果、 クリミア戦争 (1853−56年) 以来の財政赤字補填のため、大量に発行されたことによって その価値が低落していた紙幣ルーブルは、1896年には金価格で 66.7コペイカに安定しはじめ、 紙幣ルーブルの相場は平価の三分の二に定着するに至ったのである。 1897年の幣制改革において、新しいルーブルの価値を、その当時の流通貨幣総額の 91.7%を占める紙幣ルーブルの市場相場での現実価値に引下げたことは、 改革後のロシアの財政的・経済的混乱を回避させる最良の方策であった。

ロシアでは、1755年以降この幣制改革に至るまでの間に断続的に製造されていた 10ルーブル金貨を "インペリアル" と呼んでおり、1886年以後、1インペリアルは 2ゾロトニク 69.36ドーリャ (11.6135g) の純金を含有していた。 また、従来のロシアの金貨の主体は5ルーブル金貨であり、これはインペリアルの 半分の純分を持っていた (半インペリアル)。
金貨の製造と発行について規定されていた 1897年1月3日の法令によって、 インペリアル (旧10ルーブル金貨) と半インペリアル (旧5ルーブル金貨) の量目・品位を そのままにして、額面を15ルーブルおよび7 1/2ルーブルに改めた金貨が製造された。 次いで、1897年11月4日の法令によって、インペリアルの三分の一に相当する新しい 5ルーブル金貨の製造が始まり、更に、1898年12月11日の法令で 2/3インペリアルに等しい 新10ルーブル金貨が製造され、旧来の金貨とともに無制限の法貨とされた。

従来の銀貨と銅貨については、1897年3月27日の法令によって、補助貨幣として 保存されることになった。
また、1897年8月29日 (9月10日) には国立銀行に対して兌換紙幣の発行権が付与され、 この兌換紙幣の発行を保証する金準備 (正貨準備) が規定された。これによって、 国立銀行は金準備のもとに実際上の貨幣流通の必要高に従って厳格に制限された 兌換紙幣を発行することになった。 この紙幣を保証する金準備額は、発行紙幣の総額が6億ルーブルを超えない場合には その半額に対して必要とされ、6億ルーブルを超過した場合には超過分と同額の 金による保証が義務づけられた。 つまり、金準備を超えて3億ルーブルの紙幣を保証なしに発行できることになったのである。

国立銀行は "貿易を促進し、通貨を安定させる" ことを目的に、ロシア帝国の中央銀行として 1860年5月31日に設立されたが、当初兌換銀行券の発行権は与えられていなかった。
〔参考文献〕 アーサー・アーノルド、白濱篤之介訳 「ソヴェト・ロシアの銀行・信用・貨幣」
慶應書房、昭和14年

 

インペリアル金貨と国家信用券 (国立銀行券)

Империал

インペリアル金貨 (15ルーブル金貨)

1898年様式国家信用券 (1ルーブル紙幣)

 

この兌換紙幣は、従前の国庫紙幣と同じ"国家信用券"の名称で、1ルーブルから 500ルーブルの 額面で発行されており、それには次の兌換字句が記載されている。

紙幣の表面
国立銀行は国家信用券を無制限に金貨と兌換する。 1ルーブルは 1/15インペリアルに等しく、純金 17.424ドーリャを含む。

紙幣の裏面
1. 国家信用券の金貨兌換は、国家の全資産によって保証される。
2. この国家信用券は金貨と同等に帝国全域で通用する。
3. (略)

1899年6月7日にはこの幣制改革の間に公布された全ての法令を整理統合した貨幣法が制定され、 ここにロシアの金本位通貨制度は名実ともに確立されたのである。

" もしこの幣制改革が日露開戦の当時にまだ実施されていなかったとしたら、 あらゆる財政的・経済的恐慌は救われなかったであろう。"

ヴィッテは、金本位制に基づいた 1897年の幣制改革を、自身の回想録の中でこのように評価している (日露開戦はその7年後)。 そしてまた、金本位制の採択は、金を基礎とする安定したルーブルの為替相場のもとでの ロシアの工業に対する外国投資を一層激励することになり、" ロシアの国際的信用を徹底的に強固にし、 ロシアの財政を他の列強諸国の列に立たしめ "、その後のロシアの資本主義的経済発展に多大な影響を 及ぼすことになる。 しかし、この金本位通貨制度を実施するに当たって国庫に蓄積された金準備は、国民の生活を犠牲にした 苛酷な租税負担によるものであり、多量の農業生産物を強制的に輸出することで、 ロシアの金本位制は堅持されたのである。 (è  国際金本位制時代)

 


はじめに      帝政末期の貨幣流通

 

はじめに / 序.ロシアにおける金本位通貨制度の実施 /
1. 帝政ロシア末期の貨幣流通 / 2. 第一次大戦下の通貨事情 /
3. 臨時政府の通貨発行 / 4. 十月革命とソヴェト政府の通貨政策 /
5. 国内戦争と戦時共産主義の時代 / 6. 新経済政策と通貨制度の再建 /
全国的通貨 / 地域通貨

アルマヴィル貨幣の歴史的考察 / 非貨幣交換のための貨幣代用物 /
団結は力なり ― 消費組合の代用貨幣 /

ロシア革命史 (年表)