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  極東共和国の成立の経緯

 

ロシア革命干渉戦争では、日本の他に、米・英・仏・伊・中・カナダの各国がシベリア・極東地方へ軍隊を派遣しているが、日本以外は1920年初頭にほとんどが撤退した。 しかし、日本だけはその後も大軍の居座りを続けていた。

1920年3月、コルチャーク軍を撃破して極東へ進撃してきた赤軍部隊は、ヴェルフネウヂンスクの占領後、これ以上東へ向って進むことができなくなった。 日本軍が集結していたチタを攻撃すれば、日本軍と衝突することになり、日本とソヴェト共和国との公然の戦争となることは明らかであったからである。

当時、ポーランドと軍事的緊張状態にあったソヴェト政府としては極東での混乱を回避したかった。 2個師団程度の赤軍で日本軍に対抗することは困難であり、日本軍との直接の戦闘がはじまれば、日本はより大量の軍を派遣できることを承知していた。 そこで、ロシア共産党中央委員会とソヴェト政府は、日本軍との直接的な軍事衝突を避けるため、その緩衝の役割を担う 「緩衝国家」 を設立することを決めた。 これによって、日本軍との間に停戦条件を協定し、中立地帯を定めて、バイカル湖の西への日本軍の進攻を食い止めようとしたのである。

è  緩衝国家設立構想

 

極東共和国概観図

 

1920年1月5日にアメリカ合衆国がシベリアからの撤兵を決定し、日本も政治的中立 (極東各地の政変に対しては不干渉) を宣言すると、ザバイカル州西部のヴェルフネウヂンスクには 「沿バイカル臨時政府 (臨時ヴェルフネウヂンスク政府)」 (3月上旬成立、首班は A.M.クラスノシチョコフ)、アムール州のブラゴヴェシチェンスクには 「労農兵士コサック代表ソヴェト臨時執行委員会」 (2月6日成立、パルチザン政府)、沿海州のヴラヂヴォストクには 「沿海州自治会臨時政府 (浦塩臨時政府)」 (1月31日成立、首班はエスエルのA.S.メドヴェーヂェフ) など、各地で革命勢力が政権を樹立した。 一方、チタでは反革命の G.M.セミョーノフ が日本軍の支援を受けて占領を続けており、ザバイカル州は二分されていた (チタの栓)。

ロシア共産党中央委員会とソヴェト政府はA.M.クラスノシチョコフらが提唱する 民主主義的緩衝国家構想 を支持し、極東の共産主義者たちへその方向で当面の事態収拾を図らせようとした。 しかし、複数の地方政権が存在することは、緩衝国家の編成で地方政権の間に不一致を生じさせていた。 そこで、ロシア共産党中央委員会は、イルクーツク以東のこれらの地方政権を指導し、それらを統合した緩衝国家の設立のため、1920年3月3日に 「極東事務局 (極東ビューロー Дальневосточное бюро ЦК РКП(б))」 を組織することを決定した。 極東事務局は、クラスノシチョコフもメンバーの一人であったヴェルフネウジンスクの西方支部とウラジヴォストクを中心とした東方支部に分かれており、日本軍によって分断されていた。

緩衝国家の建設をめぐっては、党内や極東事務局においても、それぞれの立場に違いによって激しい対立があり、 「全シベリアのソヴェト化 (ソヴェト権力の樹立)」 を目指すグループは 「民主主義的緩衝国家構想」 に反対しており、また、緩衝国家の中心をどこにするかで、ヴェルフネウヂンスクとヴラヂヴォストクの間でも対立があった。

 


 

ヴラヂヴォストク (沿海州自治会臨時政府)

コルチャークのオムスク政府 (全ロシア臨時政府) が崩壊すると、ヴラヂヴォストクでは沿海州自治会 (自治会長はエスエルのA.S.メドヴェーヂェフ А. С. Медведев ) とヴラヂヴォストク市会が 「民主政権」 確立の動きを活発化させた。 1920年1月31日に政変が勃発し、オムスク政府の 「沿黒龍軍管区司令官」 であったS.N.ロザノフ中将 Сергей Н.Розанов は日本へ逃亡し、自治会長メドヴェーヂェフが政権獲得を宣言して 「沿海州自治会臨時政府 Временное правительство Приморской областной земской управы (浦塩臨時政府)」 が成立した (浦塩政変)。 メドヴェーヂェフの沿海州自治会臨時政府は社会革命党 (エスエル) 政権を自称し、過激派 (ボリシェヴィキ) とは一線を引く態度を公示したが、過激派と事を構えて軍事的緊張を高めることは日本に干渉の口実を与えることになるとして、ボリシェヴィキと妥協し、各政派を連合して新たに政府を組織した。 しかし、その実権はボリシェヴィキに握られていた。

è  「州自治会が政綱を発表、激動のシベリア」 (大正9年(1920年)2月4日 「大阪毎日新聞」)

1920年2月初めにソヴェト政府の外務人民委員部の極東問題担当全権委員に任命されたV.D.ヴィレンスキー Владимир Дмитриевич Виленский-Сибиряков, 1888-1943 が、日本との事前折衝を行うため、2月28日にイルクーツクを発ち、3月14日にヴラヂヴォストクに到着した。 3月16日〜19日にニコリスク・ウスリースキーで開催されたロシア共産党極東地方協議会で、党の極東での代表として出席したヴィレンスキーは 「党中央委員会の意見によれば、極東に緩衝国家 (バッファー) が創設されなければならない」 と報告した。 ロシア共産党極東委員会会議は極東のソヴェト化を断念し、1920年3月29日、沿海州自治会臨時政府に対して政権を極東全州へ広げることをすすめる決議を採択し、4月2日から始まった沿海州勤労者大会で臨時政府承認が採択された。 4月4日夜から沿海州内各地で日本軍による総攻撃 (沿海州掃討作戦) が始まったため、沿海州勤労者大会は5日に開催されなくなったが、沿海州自治会臨時政府は 「労農派と妥協し、「極東政府」 の名の下に各政派を連合し、新たに政府を組織」 することを宣言した。

è  「極東政府成らん」 (大正9年(1920年)4月4日 「大阪毎日新聞」)

ヴェルフネウヂンスクの極東共和国臨時政府への対抗意識を持つV.D.ヴィレンスキーは、ヴラヂヴォストクを新国家の政治的中心として支持しており、5月16日には 「極東にとって最大の勢力をもつヴラヂヴォストクの情勢を考慮に入れると、当地は緩衝国家 (バッファー буфер) の中心である」 と表明している。

è  「ウラジオ政府が極東分治宣言」 (大正9年(1920年)5月9日 「東京朝日新聞」)

5月29日、諸政派による連立政府 「極東臨時政府 Временное Правительство Дальнего Востока 」 が組織され、ボリシェヴィキの強い影響の下に、その首班には沿海州自治会のA.S.メドヴェーヂェフ、首相にはボリシェヴィキのP.M.ニキーフォロフ Пётр Михайлович Никифоров, 1882-1974 が就いた (ニキーフォロフは8月に労働相となり、M.S.ビナシク М.С.Бинасик がこれに代った)。 また、その年の6月には、立法機関として新設された国民会議 Народное собрание の選挙が行われた。

* * *

ところで、1月10日から始まったアメリカ軍のヴラヂヴォストクからの撤兵は3月末に完了したが、日本の派遣軍は更に駐留を続ける方針であることを声明した (1月30日にアメリカ政府は、アメリカ軍の撤退後、シベリアにおける日本軍の行動に関し何ら異議を有しない旨を通告している)。 出兵の目的も、当初の 「チェコスロヴァキア軍救援」 から 「居留民保護」、さらには 「ロシアの過激思想が東漸して満鮮から我が国に迫ることを防ぐため」 へと三たび転じられた。

è  「日本人保護などで撤兵延期、と政府声明」 (大正9年(1920年)4月1日 「中外商業新報」)

4月4日夜、日本軍はヴラヂヴォストク市街から沿海州の各地でロシア過激派の武装解除を強行した。 このとき、日本軍部隊に捕えたられた革命派指導者 (ボリシェヴィク) S.G.ラゾー Сергей Георгиевич Лазо, 1894-1920 は白衛軍に引き渡され、惨殺された。

è  「ウラジオ緊張、日本軍が最後通牒的な要求」 (大正9年(1920年)4月4日 「大阪毎日新聞」)

è  「ウラジオ、ハバロフスクで日露両軍交戦」 (大正9年(1920年)4月7日 「大阪毎日新聞」)

è  「沿海州のロシア兵を武装解除」 (大正9年(1920年)4月10日 「東京朝日新聞」)

この沿海州掃討作戦によって数千の過激派兵士が死傷し、過激派の将校468人、下士官・兵8612人が武装解除されている。

 


 

ヴェルフネウヂンスク (沿バイカル臨時政府)

日本軍の支援を受けた反革命派の G.M.セミョーノフ によって統制されていたヴェルフネウヂンスクは1920年3月3日に赤軍とパルチザン部隊によって解放され、その地に 「沿バイカル臨時政府 Временная земская власть Прибайкалья (または臨時ヴェルフネウヂンスク政府 Временное Верхнеудинское земское правительство)」 が成立した。

この時期、チタはG.M.セミョーノフがまだ占拠を続けており、ザバイカル州は二分されていた (チタの栓)。

ヴェルフネウヂンスクで3月28日〜4月8日に開催された勤労者パルチザン・ザバイカル地方制憲大会において、極東共和国 Дальневосточная республика の結成についての審議が行われ、4月6日に極東共和国の成立を宣言する布告が採択された。 そして、この宣言はアメリカ、イギリス、フランス、日本、イタリア、ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国および全世界の政府と人民へ発せられた。 そこでは、「極東 (後貝加爾、黒竜、沿海、薩哈嗹、勘察加地方及東支鉄道租借地帯ヲ含ム) ヲ独立共和国ト宣言」 されていたが、このとき共和国の実効支配の及んでいた領域は、首都のヴェルフネウヂンスク (現在のウラン・ウデ) を中心とした沿バイカル地方 (ザバイカル州の西部地域) のみであった。 この極東共和国臨時政府の首班には、1918年にハバロフスクで組織されていた極東人民委員会議の議長であったA.M.クラスノシチョコフが就いた。

è  「貝加爾共和国独立を宣言」 (大正9年(1920年)5月9日 「東京朝日新聞」)

è  極東共和国独立宣言書(松島ハルビン総領事より内田外務大臣宛電報 (大正9年(1920年)5月9日付)

ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国政府は5月14日に極東共和国臨時政府を公式に承認したが、 極東共和国の財政、外交、経済、軍事支援などはソヴェト共和国に委ねられており、ソヴェト共和国の支援のもとに、常備の国軍である 極東共和国人民革命軍 が設立された。

è  「ソビエト政府、ザバイカル政府を承認」 (大正9年(1920年)5月23日 「大阪毎日新聞」)

ソヴェト共和国 (モスクワ政府) による極東共和国臨時政府の承認は、極東諸州の各政府に対して、統一への圧力となった。
日本や欧米諸国は、極東共和国をソヴェト共和国 (モスクワ政府) の傀儡国家あるいは偽装国家と見ており、極東共和国を公式には承認することはなかった。

* * *

4月20日、チタで日本軍と極東共和国人民革命軍が武力衝突した (第五師団ハ四月ヨリ五月ニ亘リチタ附近ニ於テ西方ヨリ前進スル敵ニ対シ交戦数十回)。 5月24日からチタ西方120 km のゴンゴタ駅で、極東共和国臨時政府代表と日本軍の代表団と間で停戦交渉が行われ、7月15日に、日本軍のザバイカル州からの撤退と赤軍の極東共和国への進駐禁止が同意された (ゴンゴタでの停戦協定 Гонготское соглашение)。

è  「チタ方面の停戦交渉調印」 (大正9年(1920年)7月18日 「時事新報 (夕刊)」)

è  「緩衝国家建設と撤兵で覚書を交換」 (大正9年(1920年)7月22日 「東京日日新聞」)

ゴンゴタでの停戦協定を受けて、チタに駐屯していた日本軍 (第五師団)は8月16日にチタから撤兵し、20日にはザバイカル州からの撤退が完了した。 チタには G.M.セミョーノフ の率いる反革命軍が残留していたが、10月15日、極東共和国人民革命軍とパルチザン部隊がチタへ進撃し、チタに残っていたセミョーノフ軍部隊を駆逐して、22日にチタを開放した。 翌23日、極東共和国臨時政府はチタに国民会議が設立されたことを宣言した。

è  「新極東共和国がチタで成立、宣言を発表」 (大正9年(1920年)11月6日 「大阪毎日新聞」)

極東共和国臨時政府は、極東諸州の各政府を解消して極東共和国へ統一するための会議を開催するため、ブラゴヴェシチェンスクのアムール州執行委員会、ヴラヂヴォストクの極東臨時政府 (浦塩臨時政府) などに対して 「極東諸州代表者会議」 の招集 (10月28日〜11月10日、チタ) を呼びかけた。 会議では、セレンガ川、バイカル湖から太平洋に至る極東領土における自主独立した共和国 (極東独立共和国) の成立が宣言され、各地政府の解消と極東独立共和国への統一、極東共和国憲法制定会議の招集が決まった。 アムール州執行委員会はこの年 (1920年) の8月に極東共和国臨時政府に従属することに同意していたが、ヴラヂヴォストクの政府は、このときはまだ、ヴェルフネウヂンスクの臨時政府と合同することに難色を示した。

è  「極東共和国政府、極東統一で宣言」 (大正9年(1920年)11月8日 「東京日日新聞」)

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チタの 「極東独立共和国」 政府との交渉を打ち切ったヴラヂヴォストクの政府代表はウラジオストクに帰り、極東臨時政府は11月27日に緊急国民会議を召集した。 国民会議ではチタの 「極東独立共和国」 政府承認について各派の意見が対立した。 臨時政府の閣僚の間でも激しい対立が起り、内閣は総辞職を宣言した。

è  「ウラジオ内閣が総辞職」 (大正9年(1920年)12月9日 「東京朝日新聞」)

è  「ウラジオ新内閣が成立」 (大正9年(1920年)12月18日 「東京朝日新聞」)

12月13日、新内閣が成立した。 極東臨時政府 (浦塩臨時政府) 主席A.S.メドヴェーヂェフは、正式に同政府の解体とこれまで委任されていた国家の全権の返還を宣言するとともに、「極東共和国沿海州政庁 Приморское областное управление ДВР」 政府の成立を発表した。 これによって沿海州は名実ともにチタに首都をおく極東共和国に組み込まれ、建国当初にはヴェルフネウヂンスクを中心とした沿バイカル地方のみであった極東共和国の領域は、バイカル湖から太平洋岸にいたる極東全域に及ぶようになったのである。

 


 

最高国家権力は専ら極東の人民に属する

1921年1月、極東共和国の憲法制定と最高機関の設立を審議する会議の選挙が行われた。 この制憲会議ではボリシェヴィキが多数を占め、農民パルチザン部隊の代表者たちと同盟した。 制憲会議の期間中 (1921年2月12日〜4月27日、チタ)に、議会制共和国家としての極東共和国の国体 (最高国家権力は専ら極東の人民に属する) を反映した憲法 (極東共和国基本法) を採択した。

è  「極東憲法議會」 (大正10年(1921年)2月16日 「東京朝日新聞」)

è  「極東共和国の憲法と外相ヤンソンの解説」 (大正11年(1922年)9月5日 「大阪毎日新聞」)

極東共和国はソヴェト制をとらず、国民会議を最高機関とする議会制共和国 (ブルジョワ民主主義国家) で、メンシェヴィキやエスエル (社会革命党)、カデット (立憲民主党)、無党派農民をも結集しながら、主導権はボリシェヴィキが握っていた。

極東共和国政府の首班には、ボリシェヴィクの A.M.クラスノシチョコフ (1920.4−21.9:立法機関の長、同時に1920.11−21.2:閣僚会議 (執行機関) 議長兼外相) が就いたが、1921年にクラスノシチョコフはモスクワへ召還された。

 


 

日本軍の撤兵と極東共和国の終焉

1921年5月26日、ヴラヂヴォストクで駐留日本軍の支持のもとに、反革命勢力によるクーデターが起こり、コルチャーク軍の残党であるカッペリ兵団のメルクーロフ兄弟 братья С.Д. и Н.Д. Меркуловы が 「沿アムール臨時政府 Приамурское временное правительство 」 を樹立した。 この年の末から翌22年初めにかけて、メルクーロフの反革命軍は再び北上し、一時はハバロフスクを占領するが、極東共和国人民革命軍 に反撃された。

è  ヴォロチャーエフカの戦闘

一方日本国内でも、シベリア出兵に対する国民の不満は次第に高まり、日本政府 (加藤友三郎内閣) は1922年6月24日に、シベリア派遣軍を11月1日までに極東から撤兵することを宣言した。 シベリア派遣軍の撤兵は10月25日に完了し (最終部隊のヴラヂヴォストク出港)、極東共和国人民革命軍がヴラヂヴォストクに入った。

è  「全軍、シベリア撤退を完了」 (1922 (大正11).10.26 「大阪毎日新聞」)

極東共和国は、日本軍の存在という特殊な条件のもとで成立した緩衝国家であり、日本から干渉継続の名分を奪い、日本軍の撤退を促進するための戦略としての意義をもつものであった。 1922年11月15日、緩衝国家としての役割を終えた極東共和国は、正式にロシア社会主義連邦ソヴェト共和国に合同した。

è  「チタを莫斯科へ隷属」 (1922 (大正11).11.5 「大阪朝日新聞」)

è  「極東共和国、ソビエト=ロシアに合併」 (1922 (大正11).11.18 「大阪毎日新聞」)

è  「革命委員会成立でチタの極東共和国廃止」 (1922 (大正11).12.3 「時事新報 (夕刊)」)

 


 

本稿における新聞記事は 『大正ニュース事典』(毎日コミュニケーションズ、1987年) より転用した。 ただし、『大正ニュース事典』 では、記事の見出しは元の資料と異なっており、本文も現代風に書き直されている。

 

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