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クラスノシチョコフ、アレクサンドル・ミハイロヴィチ

А.М.Краснощёков 
с Луэллой и женой

Краснощёков, Александр Михайлович (1880-1937.11.26)

キエフ県ペレヤスラヴ郡のチェルノブィリで領地管理人の家に生まれる。 1896年から、キエフ、ニコラエフ、ポルタヴァ、エカテリノスラヴなど、ウクライナ各地で社会民主主義運動を行う。 1902年、アメリカ合衆国へ亡命。 米国社会党に入り、労働組合で働く。 1912年、シカゴで高等専門学校を卒業する。

1917年夏、二月革命後のロシアへ帰国し、ロシア社会民主労働党 (ロシア共産党) に入党。 その後、シベリア・極東地方の各地でボリシェヴィキの幹部として活動した。

1920年4月6日、赤軍と日本のシベリア派遣軍との軍事衝突を避けるための緩衝地帯として、ヴェルフネウヂンスクに 「極東共和国」 が成立すると、クラスノシチョコフは政府首班兼外相となった。

極東共和国はソヴェト制をとらず、国民議会を最高機関とする議会制共和国で、無党派農民をも結集しながら、主導権は共産党が握っていた。 日本のシベリア派遣軍が極東から撤兵した後、1922年11月15日に極東共和国はロシア社会主義連邦ソヴェト共和国と合同した。

 


 

1917年、ヴラヂヴォストク・ソヴェトの議員、ニコリスク・ウスリースク地域委員会議議長、極東地方ソヴェト執行委員会議長。

1918年、極東人民委員会議議長。
この時期、ハバロフスクで、額面10、25、50ルーブルの3種類の地域紙幣が発行されているが、これら紙幣には極東人民委員会議議長の肩書でクラスノシチョコフの署名があり、そのためこれらの紙幣は 「クラスノシチョコフ」 と呼ばれている。

1918年9月から、反革命勢力の攻勢下のシベリアで、党の地下活動に従事。

1919年、ロシア共産党イルクーツク県委員会委員。

1920年3月〜1921年9月、ロシア共産党中央委員会極東事務局に所属。

1920年4月〜1921年9月、極東共和国政府首班 (立法機関)。

同時に、1920年11月〜1921年2月、 大臣会議 (執行機関) 議長兼外相。

1921〜1922年にはロシア社会主義連邦ソヴェト共和国財務人民委員会副議長、1922〜1926年にはソヴェト連邦商工銀行幹部会議長に就いたが、スターリンによって粛清された。

1937年11月26日、銃殺により処刑。

 

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