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レーニン、ヴラヂーミル・イリイチ

 

Ленин (Ульянов), Владимир Ильич (1870−1924)

В.И. Ленин (1870-1924) 本名ヴラヂーミル・イリイチ・ウリヤーノフ。 レーニンは通称 (使用するようになったのは、1902年以降)。 1870年4月10日 (22日)、イリヤ・ニコラエヴィチ・ウリヤーノフ (1831-86) の次男として、ヴォルガ河沿岸のシンビルスクに生まれた。

レーニンの父は、当時シンビルスクの視学官として、元老院議官の勅任待遇 (貴族身分) を受けていたが、 その先祖は農奴の出身か、被圧迫民族の出身であったという。 また、母は医者の娘であったが、その家系はドイツ人の血をひいているといわれている。

1886年1月24日、レーニンの父が脳溢血で死去し (54歳)、 翌年 (1887年) の5月8日には、4歳年上の兄アレクサンドルが、皇帝暗殺陰謀事件に加わった罪により絞首刑にされている。 この年の6月に、レーニンはギムナジヤ (8年制中学校) を優等で卒業した。

国事犯の弟がカザン大学 (帝国大学) へ入学することは困難であったが、 それに対して骨を折ってくれたのが、のちに臨時政府の首相となるケレンスキーの父フョードル・ケレンスキーであった。 フョードル・ケレンスキーはレーニンの学んだ中学校の校長であったばかりでなく、レーニンの亡父の遺言によって、ウリヤーノフ一家の後見人になっていた。

8月にレーニンはカザン大学法学部に入学したが、学生運動に参加して放校処分 (12月5日) にあい、それ以降は絶えず官憲の監視下におかれた。 1891年、ペテルブルグ大学法学部の検定試験に優秀な成績で合格し、翌年サマラで弁護士補となったが、程なく革命運動に身を投じることになった。 1895年には逮捕・投獄され、1897年2月17日に3年間のシベリア流刑に処せられた。 流刑地のエニセイ県で1歳年上のナジェージダ・コンスタンチノヴナ・クループスカヤと結婚している (1898年)。

刑期が満了して間もなく、1900年1月に彼は国外へ出国した。 その後は著書と雑誌でマルキシズムの宣伝活動に没頭していたが、二月革命の後の 1917年4月3日 (16日)、「封印列車」 でペトログラードに帰った。 このとき、彼はすでにボリシェヴィキ (ロシア社会民主労働党 多数派) の指導者とみなされていた。

7月3〜4日 (16〜17日)、ペトログラードで約40万人の労働者・兵士が 「全ての権力をソヴェトへ」 をスローガンに掲げて武装デモを行ったが鎮圧された (七月事件)。 臨時政府はこの出来事を口実にボリシェヴィキを弾圧し、レーニンは再び亡命した。 しかし、総軍司令官コルニーロフ将軍のクーデター未遂事件 (9月) ではケレンスキー政権はボリシェヴィキに援助を求めた。 こうした状況の中で、フィンランドに亡命していたレーニンがペトログラードに戻り、10月10日 (23日)に開かれた党中央委員会でレーニンの主張する武装蜂起の方針が決定された。

1917年10月25日 (11月7日) 午前10時、ペトログラード・ソヴェト軍事革命委員会は臨時政府が打倒され、同委員会が権力を掌握したことを宣言した (十月革命)。 首都のペトログラードでは 「無血革命」 に近かったが、その後、ロシア全土で白軍 (反革命軍) や外国干渉軍との死闘が始まり、それによって 800万人が死ぬことになる。 1918年9月、レーニンは 「一切」 を危機打開のために動員する戦時共産主義を実施、革命の防衛を指導し、1920年、内乱の鎮圧に成功した。

内戦が終結すると、1921年3月に新経済政策 (ネップ) を採用し、労農提携によるロシア経済の復興にとりかかったが、 1922年秋には重病となり、数回の脳出血ののち、1924年1月21日、モスクワ郊外の静養地ゴールキ усадьба Горки, Московская губерния で死去した。


 

В.И. Ленин ロシア革命は、レーニンを抜きにしては語れない。 十月革命直前には、ケレンスキーを首班とする臨時政府とレーニンらの革命勢力との差は僅少であった。 ボリシェヴィキ指導部の多くは、武装蜂起にたじろいだが、それを説得し、革命を成功させたのは、レーニンの洞察力と大胆さであった。 レーニンは、群集を率いる才能をもち、人を惹きつける魅力を備えていた。 体躯矮小 (身長 157cm ほど) な彼が、「大きな禿頭をテカテカ電気に輝かせながら壇上にあらわれると、群集は熱狂的に喝采した」 という。

歴代のソ連指導者と親交のあった米国の実業家 (のちの米オクシデンタル石油会長アーマンド・ハマー) は、飾らぬ人間としての魅力を持つレーニンの印象を、次のように語っている。 (1987年6月7日付 「朝日新聞」 より)
「レーニンの茶色い目は鋭く光りながら、私の魂を包み込むほどの温かさに満ちていた。 ヒザとヒザがくっつくようにして語りかけるレーニンの親しさは、瞬時にして2人を親友にしてしまう不思議な魅力を持っていた。」

ペレストロイカ以後、レーニンに対する悪意ある非難が公然となされるようになったが、レーニンが生きた時代がどのようなものであったかを無視すべきではない。 「レーニンは、ロシアの混沌たる崩壊をくい止めた。 専制的、暴君的手段でくい止めた (ベルジャーエフ、1881−1948)」 のである。

少し旧聞になるが、2005年11月9日の朝日新聞は、「レーニンの人気は今も健在 ― インタファクス通信は旧ロシア革命記念日の7日、革命の指導者レーニンが 「最も肯定的な現代史上の人物」 に選ばれたとする世論調査の結果を伝えた。」 と報じている。 この世論調査で、一番人気のレーニンを肯定的に評価したのは 54.5%、否定的評価は 28.7%であったという。 ソヴェト連邦が解体して14年目のロシアにおけるレーニン評である。

「レーニンは死せり。 されどその事業は永遠に生きん。」

 

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