ページを閉じる  

ニコライ二世 (ロマノフ、ニコライ・アレクサンドロヴィチ)

 

Николай II (Император Всероссийский) Николай II (Романов, Николай Александрович) (1868−1918)

皇帝在位 1894〜1917年。 1868年5月6日、ロシア皇帝アレクサンドル三世の長子として誕生した。

ニコライ二世は、「青年時代を放縦に過ごし、専制君主としての教養が不足していたうえに、生来優柔不断で、努力への意志も覇気もなく、お人好しの反面わがままで、偏狭頑迷で、気まぐれの性分であった」 といわれている。 しかし、芦田均 (あしだ・ひとし、第二次大戦終戦直後の昭和23年に内閣総理大臣) によれば、「側近く見てのニコライ二世は、神経質ではあるが、虚飾のない、親切な、聡明な紳士という感じ」 であったという (『革命前夜のロシア』 文藝春秋新社、昭和25年)。


ニコライは皇太子としての特別な教育 (帝王学) を受けたほか、軍事の実地訓練のため近衛連隊に配属され、即位のときまでに近衛将校として大佐に進んだ。 彼はこの関係で、最後まで近衛大佐の制服を好んで着ていた。

ニコライは、未来の皇帝としての外国視察を名目として、1890年11月にサンクト・ペテルブルグを出発し、中欧、バルカン、エジプト、インド、中国、日本などを訪問し、翌91年8月シベリア経由でサンクト・ペテルブルグに帰還した。 この旅行はニコライの 「東方旅行」 と呼ばれ、ニコライにとって未知であった東方諸国の見学に主眼が置かれた。 日本には1891年 (明治24年) に訪問したが、5月11日に大津で路上警護に当っていた巡査津田三郎にニコライはサーベルで切り付けられ負傷した、いわゆる 「大津事件」 に遭遇している。

1894年10月20日、アレクサンドル三世が逝去し、皇太子ニコライがロシア帝国の皇帝となった。 同時に、婚約者アリーサ (アリックス) はロシア正教の洗礼を受け、アレクサンドラ・フョードロヴナと名づけられた。 11月14日、新皇帝ニコライとアレクサンドラとの結婚式が挙げられた (ニコライ 26歳、アレクサンドラ 22歳)。

皇后アレクサンドラ・フョードロヴナは、1872年5月25日 (新暦6月7日)、南ドイツのヘッセン・ライン大公ルードヴィヒ四世 (1837−91年) の末子 (兄1人、姉3人) としてダルムシュタットで誕生した。 結婚前は母と同じアリーサという名であった。 父大公は普仏戦争の勇者として武名高く、母アリーサ (1843−78) は英国ヴィクトリア女王 (在位1837−1901年) の三女であった。 彼女が6歳のとき母が病死したので、彼女は英国王室に引き取られた。 (註: アリーサ (Алиса) はアリス (Alice) のロシア語風表記。)

ところで、ロマノフ家は、ヘッセン大公家を通して以外にも、英国王室と親戚の関係にあった。 ヴィクトリア女王の子エドワード七世 (在位1901−10年) の妃アレクサンドラはデンマーク王クリスチャン九世の娘で、ロシア皇帝アレクサンドル三世の妃マリーヤ・フョードロヴナと姉妹であり、 従って、2人の子である英国王ジョージ五世 (在位1910−36年) とロシア皇帝ニコライ二世とは従兄弟の間柄であった。

ニコライ二世 気軽で、平民的、自由主義的で、封建的な宮中のしきたりなどには一向お構いなしに振る舞う皇太子時代のニコライは人気があった。 ニコライが反動的な父に似ない開けた人間らしいという噂は、ロシアの国民に期待を抱かせたが、即位後まもなく、彼の 「リベラリズム」 に幻滅を感じさせられることになる。

1896年5月14日、ニコライは歴代の皇帝の例に倣ってモスクワのクレムリンで戴冠式を挙行した。 5月18日にはモスクワ郊外のホディンカ原で一般国民の祝賀祭が催されたが、そこで突発した惨事 (死者1,389人、負傷者は約1,300人) は、新皇帝の将来に暗い影を投げかけた。 その後、日本との戦争 (1904.1.27−1905.8.23)、血の日曜日事件 (1905.1.9)、ストルイピン首相暗殺 (1911.9.1)、第一次大戦 (1915−1918) など、帝国の根底を揺るがす事件や戦争が続発した。

ニコライは、到底、大国の皇帝たるの器ではなかった。 そして、彼自身もそれを知って、自らその重荷に絶えず頭を痛めていたようである。 また、アレクサンドラは、血筋において半分英国人であったばかりでなく、幼少の頃英国王室に引き取られ、長い間英国で生活したので、教養においては血筋以上に英国人に近かった。 彼女は、如何なる場合も威厳を尊び、そのうえ生来理知的で、勝ち気で、意志が強かった。 その点ニコライとは正反対であった。 しかし彼女は威厳を尊ぶ反面、非常に家庭的なところがあった。

ニコライとアレクサンドラには、結婚以来4人の皇女 (オリガ、タチアナ、マリア、アナスタシア) が生れたが、皇太子にはなかなか恵まれなかった。 世継ぎの男子が生れないことを深く気に病んで、彼らは夫婦揃って信仰に凝り出し、神のお恵みによって奇跡 (皇太子誕生) を実現させようとするようになった。

1904年8月12日、日本との戦争の真っ最中に、待ちに待った皇太子が生れた。 結婚後11年目であった。 この皇太子は、ロマノフ朝第二代皇帝の名を取って、アレクセイと名づけられた。

ニコライ二世の家族 (1914年) ところが、せっかく 「神から授かった」 皇太子も、結局は新たな心配の種でしかなかった。 アレクサンドラが実家ヘッセン大公家から宿命の遺伝病を持ってきたことがやがて判明したからである。 ヘッセン大公家にはいつの頃からか血友病という病気が伝わっていた。 血友病は、出血しやすく、しかも一旦出血すると容易に血が止まらない (しかも内出血が多い) 病気である。 この病気は女には出ずに、健康と見える母を経て男の子だけに遺伝する特異性を持っていた。 アレクサンドラは、医学の力が及ばなくても、自分の信仰の力でアレクセイを救わなければならないと決心して、一層信仰に没頭するようになった。

信仰にすべてを捧げたアレクサンドラの前に、妖僧ラスプーチンが登場することになる。 このシベリア生まれの修道僧は無知な人々や精神の均衡を失った人々を巧みに欺き、様々な 「奇跡」 を行ってみせた。 ラスプーチンは皇帝および皇后のお召を受け、彼らの深い信頼を得るようになった。 宮廷内におけるラスプーチンの勢力は日ごとに高まっていった。 宮廷ばかりでなく、貴族、政治家の中にもこの妖僧を取り巻いて暗躍する者たちが少なくないと取りざたされた。 やがて、ラスプーチンは内閣の人事にまで関るようになっていくと、彼はロシア中の憎悪を一身に受けることになった。 「ロシアの苦しみはすべてラスプーチンから発したもので、彼を追い出しさえすれば政府の政策は変ると感じる人が、日ましに増えていたのである (ケレンスキー回想録)」。 当然のことながら、このようなラスプーチンの横暴・政治への介入に対して、強い危機感を持つ勢力もあった。 ラスプーチンの暗殺は、ドミトリ大公、ユスポフ公爵、国会議員のプルシュケヴィチらによって、1916年の12月29日の夜から翌30日の未明にかけて行われた。 「ペトログラードはラスプーチンの死を知って歓喜の叫をあげた」 という。

ラスプーチンの暗殺は政局の混乱がその極点に達したことを物語るものであり、皇帝の退位は避けられないことであった。 1917年に入って、多くの人々は云わず語らず、遠からず何事か起こるとの予感をいだいていた。

1917年2月23日〜25日にペトログラードで大規模な政治ゼネストが勃発し、2月27日に帝政政府が崩壊した(二月革命)。 3月2日、リヴォフ公爵を首班とする臨時政府が成立し、ニコライ二世はロシア帝国最後の皇帝として退位した。 臨時政府の監視下でペトログラード郊外のツァルスコエ・セローの離宮で幽閉生活を送っていたニコライとその家族は、8月に西シベリアのトボリスクに移された。 十月革命によって成立したソヴェト政権は、翌1918年4月、この元皇帝一家をウラル地方の中心都市エカテリンブルグへ移し、彼らを 「囚人」 として監禁した。

5月下旬にチェコスロヴァキア軍団の反乱が勃発すると、これに呼応して各地で白衛軍が活発な活動を開始し、6月上旬にはヴォルガ河中流のサマラからオムスクまでのシベリア鉄道の沿線地域は反革命勢力に占領され、 エカテリンブルグは脅威にさらされることになった。 元皇帝一家が反革命勢力に奪還されることを恐れたウラル地方ソヴェト執行委員会は、ニコライおよびその家族の銃殺を決定し、7月16日から17日にかけての深夜、4人の侍従とともに元皇帝一家は殺害された。

元皇帝一家の遺体の行方は長く不明だったが、1979年にウラル地方のエカテリンブルク郊外の沼地から発見された。 ソヴェト連邦解体直前の1991年になってその事実が公表され、1993年にロシア政府は英米の科学者の協力も得て遺骨の DNA鑑定を行った。 その結果、遺体は、皇帝、アレクサンドラ皇后、皇女3人(オリガ、タチアナ、マリア)、侍徒4人のものであるとされた。 皇太子アレクセイと第四皇女アナスタシアは確認されなかった。 DNA鑑定の結果に疑問を持つ研究者もおり、またロシア正教会も皇帝一家の遺骸と認めなかったが、没後80周年の1998年7月、遺骨は歴代皇帝が眠るサンクト・ペテルブルグのペトロパヴロフスク聖堂に埋葬された。


 

列聖された受難者ニコライ二世とその家族 2000年8月13日〜16日、モスクワでロシア正教会の主教会議が開かれた。 主教会議は14日、ソヴェト政権によって殺された皇帝ニコライ二世と皇后アレクサンドラ、皇太子アレクセイのほか、オリガ、タチアナ、マリア、アナスタシアの4人の皇女を殉教者とみなし、「聖人」 に列することを決めた。 列聖式典は20日、モスクワの救世主ハリストス大聖堂で行われた。

主教会議の決議は、皇帝一家を含め、20世紀のロシアの信仰の受難者として 860人を 「聖人」 に加えたが、一度にこれほど大量に 「聖人」 が生まれるのは正教会史上で初めてであったという。


 

 ページを閉じる