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(余 話) ロシアの黄金強奪事件

ロシアの黄金をめぐるスキャンダル

 


日本を舞台にした、「ロシアの黄金」 に関連したスキャンダルには次のものがある。 それらの経緯を検証することは本稿 「ロシア革命の貨幣史」 の目的ではない。 ここでは、事件の概要を紹介するに留め、詳しくは、関連資料 を参照されることをお勧めする。

  • 「陸軍機密費横領事件 1926年」
    日本軍がシベリアで押収した金塊が、国庫に収められずに、軍が私的に管理・流用しているという噂は、かなり早い時期からあったが、 時の政友会総裁 田中義一 (第一次大戦時は参謀次長、ついで原内閣 (1918-21) の陸軍大臣) がシベリア出兵当時の陸軍機密費の一部を横領して政界入りの資金にしたのではないかという疑惑が浮かんだ。 また、ハバロフスクなどで日本軍が捕獲した金塊の一部も行方不明となり、田中が疑われた。
    誇り高い日本陸軍の組織ぐるみの犯罪ではなく、陸軍に巣くう一部の頭の黒い鼠たちが起こした窃盗事件もしくは詐欺事件にすぎなかったのであろうが、 事件を捜査していた担当検事の変死事件 (次項) にまで発展したとなると、その巣は極めて大きく、犯人たちは虎より大きい鼠であったようである。

  • 「東京地方検事局石田基次席検事変死事件 1926年」
    上記事件に関連して、「陸軍機密費横領事件」 を捜査していた東京地方検事局の石田基 (もとい) 次席検事が、1926年10月30日朝、 大森と蒲田の間の鉄橋の下の小川で変死体となって発見された。 死因は下あご付近の打撲とみられた。 石田検事は前夜、日比谷の料亭で検事の集まりに出席していたが、 死体で見つかった場所は市ヶ谷の自宅とは逆方向だった。 多くの疑問が残ったが、検事局は過失死として処理し、解剖もせずに火葬にしてしまった。 石田検事の死で陸軍機密費事件は不起訴に終わり、その死と事件の結末には大きな疑惑が残った。

  • 「セミヨノフ将軍の謎の金塊横取事件 1928年」
    大正8年 (1919年) の7月頃、オムスク政府の最高執政官コルチャークより金塊を積載した車両2両を受け取ったセミョーノフは、 翌年の3月頃、その金塊の一部 (33箱) を日本金貨に換えて、朝鮮銀行に預金し、その預金から140万円を武器買付けのための前渡金として、 元帝政ロシアの日本駐在武官ミハイル・ポドチャーギン (Михаил Павлович Подтягин) 少将に送金した。 しかし、ポドチャーギンは、その金の一部を費ったただけであった。 その後、ロシアより亡命したセミョーノフが、代理人を介して106万円の返還を求めたが、ポドチャーギンは、 「この金は、露国国家の公金で、セミョーノフ個人の金ではない」 と返還に応じない。 そこで、セミョーノフはまず、シベリア出兵当時の特務機関長であった 黒木親慶 を原告とする 「セミョーノフ金塊裁判」 を起こした。・・・
    そのほか、「カルムィコフ将軍の金塊事件」 や 「ロザノフ将軍の金塊事件」 など、反革命側の将軍たちが亡命に際して持ち出した黄金と 日本の派遣軍部隊にまつわる事件は枚挙にいとまがない。
      ◆ 関連の新聞記事 ( è  「セ軍の五百万円日本金貨となる」

  • 「ペトロフ将軍の金塊返還を求める民事訴訟 1932−1940年」
    1932年9月4日、コルチャーク提督の側近 ペトロフ将軍は金塊探しのために、大連から来日し、長崎、山口、神戸を経由して入京した。 彼は、カザンに保管されていたロシアの金準備のうちの22箱の黄金 (一説には、総額125万ルーブル相当) と一緒に亡命するに至ったが、 他の勢力に黄金が奪われることを恐れて満洲駐留の日本軍に一時保管を託したという。 ペトロフは日本政府と関東軍司令部を相手取って、黄金の返還を求める民事訴訟を日本の裁判所で起こした。 ペトロフ一家は来日後 「二・二六事件 (1936年(昭和11年)2月26日)」 の頃まで横浜の豪邸に女中をおいて暮らしていたが、 その資金は訴訟の結果に望みを抱く陸軍大将 荒木貞夫の周辺から出ていたものであるといわれた。 しかし、この訴訟は8年後の1940年に却下された。
    ロシアでは、イズヴェスチヤ紙が 「ペトロフ将軍の金塊」 を報道した 1991年以来、何度も 「日本軍に奪われた金塊」 についてマスコミが取り上げている。 ロシア外務省も 1995年春に日本に対して問い合わせており、日本外務省は 「軍が議会に提出した報告書では、全部返却されている」 などと回答したという。

  • 「ニコライ二世とコルチャーク提督が預けた金塊を返せ」
    2004年4月、日本とロシアの有識者でつくる 「日ロ賢人会議」 がモスクワで開かれた際に、ロシアのボース下院副議長が、第一次大戦のころ、 ロシアが日本に渡したとされる約8,000万ドル (約88億円) 相当の金塊の返還を日本に求めるべきだ、と発言した。 ボース副議長は、皇帝ニコライ二世とコルチャーク提督が武器購入のために4回にわたって日本側に金塊を渡したが、武器は提供されず、 現在の価値で 8,000万ドル相当の 「皇帝の金塊」 が日本で保管されている、と主張した。 日本の外務省は 「今になって、なぜ話がでてくるのか理解できない」 と困惑を隠さず、「問題は決着済み」 とロシア側に申し入れたという。
    日本では、「日本陸軍省はオムスク政府に対し、武器の売却未収金九十一万五千円がある (当時の金高で)」と、債務はロシア側にあるとしてきたが、 ロシア側は 「1919年に日本政府は武器の輸出を禁止しており、買い付けた全ての武器は、結局日本に残った」 、すなわち、「金塊を渡したのに、日本からは銃も弾薬も受け取っていない」 と主張している。

 


黄金強奪事件の顛末      日本は、ロシアの黄金22箱を返還するか

 

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《解 説》 1918−22年、シベリアの社会・政治情勢 
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