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1991年9月13日付ソヴェト連邦政府機関紙イズヴェスチヤ

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記事の原文



 


記事の日本語訳

日本は、ロシアの黄金22箱を返還するか

その可能性はあると、コルチャーク派の将軍の子孫は断言している

モスクワでの同胞者会議を最近訪問した人々の中に、カリフォルニアのビジネスマン、セルゲイ・ペトロフ氏がいた。 彼の父親のパーベル・ペトロフは、内戦当時、 A. コルチャーク 提督の補給・宿営担当将官(現在の用語では後方司令官)であった。 彼はコルチャークと共に退却し、詰まるところ、革命の時期にカザンに保管されていたロシア帝国保有の金の貯えのうちの22箱の黄金と一緒に亡命するに至った。 その地でその黄金は、1918年にコルチャークの手に陥ちていたのだ。 今まで、歴史家たちは、この 「カザンの黄金」 の残存物は、チェコスロヴァキア軍団 の司令部がボリシェヴィキの委員たちとのとの取引 我々は君たちに黄金と生身のコルチャークを、君たちは我々に祖国帰還のための機関車と車両をの結果、ソヴェト共和国に戻されたものと考えていた。

金の貯えの一部である22箱はペトロフ将軍が 「隠匿」 していたことが明らかになった。 この 「黄金の箱」 の運命は如何に? このことについて、アメリカ・ソヴェト会社ASRGのコンサルタントで歴史愛好家 (米国で彼はソ連共産党の 「灰色の枢機卿」 M.A.スースロフについての書籍を刊行した)、ペトロフ将軍の息子セルゲイ・パヴロヴィチが語っている。

粉砕されたコルチャーク軍の軍用列車がシベリア鉄道で東方へ退却していた、その混乱とパニックのとき、黄金は白軍からも赤軍からもチェコスロヴァキア人たちからも見られぬように隠蔽することはそれほど困難ではなかった。 車両には 「干し草」 と書かれ、箱に 「ダイナマイト」 と目立つように書かれて、車両は病院列車に繋ぎ足された。

その先は、線路はチタおよび東支鉄道を経由してハルビンへ通じていた。 この時期、ザバイカル地方では セミョーノフ が権力を掌握していた。 セミョーノフの一派は、マフノ おやじに劣らず、白軍側にも赤軍側にも強盗を働いていた。 ペトロフ将軍はジレンマに陥った。 黄金を全て失うか、あるいは...日本の軍当局にその保管を委託するか、ペトロフ将軍は決断を迫られた。 ふたつ目を選択した。

1930年代の初頭、ペトロフ将軍は家族を伴って日本へ亡命した。 そこで彼は、最も適切な時まで、日本の銀行のひとつに既に全く公式的に保管を委託されているこれらの箱を取り戻すことを試みた。 始めのうちは万事成功裏に展開するかのようであった。 しかしその後、難儀なことが起きた。 民事当局は応じても、軍事では、何も始まらないのである。 どのような黄金か? 逃亡者ペトロフ将軍とはどのような人物で、どのような政権を彼は代表しているのか? そこでペトロフは裁判を仰ぎ、ほとんど勝訴した。 ほとんどというのは、我が国で大変動がしばしば起こったことだけではない。 ペトロフ将軍に有利な最終判決が下される前に、日本ではクーデターが起き、政治結社が政権を握ったのであった。 ペトロフを支持する日本の文民である、裁判官、弁護士、予審判事たちは、政治結社によって弾圧され、或る者は銃殺された。 将軍自身は急遽家族を伴って米国へ逃れ、彼は後年そこで死去した。

「日本ではクーデターが起き ・・・ 或る者は銃殺された。」
クーデターとは「二・二六事件」のことであろうか。 日本の歴史に対する認識のズレが若干あるようである。 二・二六事件とは、1936年(昭和11年)2月26日に、陸軍青年将校ら1,483名が起こした反乱事件であるが、クーデター未遂事件であって、政治結社が政権を握ってはいない。 ペトロフ将軍の敗訴は、軍部の圧力によるものではなかったと思うが、いずれにしても、この事件以来、軍部の力が急速に強まり、何者も軍部には逆らえない風潮がさらに色濃くなってきたことは確かである。

しかし、「黄金の箱」 についての事件は跡形もなく消失してしまったのではない。 満洲の日本軍当局の公的な受領書が存在する。 その原物はサンフランシスコの亡命ロシア人老兵古文書館に保存されている。 それ以外にも、日本の古文書館には 「ロシアの黄金22箱の訴訟」 そのものの資料が保管されていたのである。

ペトロフ将軍によって日本の官憲に保管を委託されたロシアの黄金の問題は、とりわけ我が国の現今の状況および確実な保証による信用保障の必要性の見地からに照らして、十分に現実的である。 ちなみに、亡命者として家族ともに困窮したとはいえ、将軍自身はこの箱からは何も取らなかった。

正確な総額と重量を将軍の息子は記憶していないが、それを確かめることは難しくない。 黄金を輸送するための箱は標準的なもので、ロシアの金の貯えの 「カザンの保管」 目録は我が国の古文書館に存在しており、 コルチャークによるこの黄金の強奪についての 「白軍側」 歴史家たちの専門的な発表も国外には豊富にある。 それゆえに計算することは困難ではない。 より難儀なのは、ロシアがそれを国家財産に取り戻すことである。 しかし、日本の官憲との交渉を始めることは、ぜひとも必要である。

V.シロトキン
外務省外交研究所教授
同胞会議組織委員会会員

来週、ロシアテレビでドキュメント映画 「和解:同胞会議への後書き」 が放映される。 視聴者はそこでペトロフ将軍の息子の話を聞くことができるであろう。

 

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