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日本刀仕込みの正剣 ― 1

陸軍武官正剣拵の「肥前國忠吉」一尺八寸

 

 

 


 

明治期の陸軍武官正剣「蜻蛉剣」

明治期、日本陸軍の武官は、野戦や常勤時に軍服と共に使用される軍刀とは別に、正服着用時には「蜻蛉剣」と呼ばれている儀仗用の正剣を佩用していた。 正剣はフランス式の反りのないエペ型の洋剣拵のもので、 太政官布告第百七十四號「陸軍武官服制改正」で「服制の一部」として明治八(1875)年十一月二十四日に制定された ( 明治十九年勅令第四十八號 にて改訂)。

è  陸軍武官服制制定の経緯




明治十九年制菊軍尉官正剣(蜻蛉剣)

素早く飛び回り害虫を捕食するトンボは、前にしか進まず退かないところから「不退転(退くに転ぜず、決して退却をしない)」の精神を表すものとして「勝ち虫」とも呼ばれ、 古来より一種の縁起物として武人に好まれた。そのため、兜や鎧などの武具、鍔(つば)や柄頭などの刀装具、陣羽織や印籠の装飾などに用いられた。

トンボの図が配われた刀の柄頭
素銅石目地勝虫図高彫金銀象嵌色絵 印銘「東雨」

(東雨 : 土屋安親1670-1744、江戸時代中期の奈良派の装剣金工師。通称 弥五八,晩年は東雨と号す。)

 

明治期の陸軍武官の正剣にも、剣の柄頭(Pommel) にトンボ図が刻まれていることから、「蜻蛉剣」と呼ばれている。


本稿で紹介するのは、一般的なエペ型の剣身に替えて、日本刀(「肥前國忠吉」銘 一尺八寸 脇差)が仕込まれた蜻蛉剣拵の逸品である。

 


 

明治八(1875)年十一月二十四日太政官布告第百七十四號 において、兵仗の軍刀と共に儀仗の正剣が陸軍武官の服制の一部として制定された。 しかし、そこでは正剣の外装について定められているが、剣身については触れられておらず、その選択は自由であった。

戦闘用ではなかったはずの正剣に日本刀を仕込む意図は判然としないが、下記に示す陸軍御剣師 壽屋(すや)茂助(もすけ) の「明治十七年改正定価表」に、 陸軍武官向けの各種個人装備品の取り扱い価格に混じって、定価表の中央部左側に「日本刀入剣拵代価」が明記されているところをみると、剣身を日本刀に替えた正剣も、 それ相応に注文があったものと思われる。


陸軍御剣師 壽屋茂助 「明治十七年 改正定価表」

明治九(1876)年三月二十八日に発せられた 廃刀令(帯刀禁止令) によって、常時日本刀を身に付けることが禁じられた士族のノスタルジーか ...?

明治八年太政官布告第百七十四號 (明治8(1875)年11月24日) の陸軍武官服制改正で、「服制の一部」 として、 儀礼・朝儀用 (儀仗) の正剣と、戦闘用 (兵仗) の軍刀が規定された (凡ソ制服或ハ軍服ヲ着スルトキハ必ス刀劔ヲ帶ルヲ法トス)。 この当時、軍服時に着用する軍刀だけでなく、「制服 (正装) 時にこそ、日本刀を!」 と想う武官は、少なからずいたものと思われる。

 


 

日本刀仕込みの蜻蛉剣

刀身 脇差 (小太刀)一尺八寸 肥前國忠吉(八代)
銘  表 無
    裏 肥前國忠吉 (差し裏に銘を切る太刀銘)
刀長 54.6 p、反り 1.2 p、目釘穴 2個
元幅 約2.5 p、元重 約0.6 p、先幅 約1.8 p
刃紋 直刃

銃砲刀剣類登録証番号 神奈川 第76553号
  白鞘つき

拵  明治十九年制陸軍尉官正剣(蜻蛉剣)拵
拵全長 78.5 p
柄巻  鮫革茶研ぎ出し
切羽  革切羽
金具  真鍮鍍金、柄頭に蜻蛉の彫金 鍔に旭日の彫金
はばき 銀着せ鍍金はばき

 

 

八代忠吉(享保元(1801)年〜安政六(1859)年)は忠吉家の卓尾を華々しく飾る江戸時代末期の刀工。 橋本新左衛門、晩年は内蔵允(くらのじょう)と称す。六代近江守忠吉の孫で、七代の甥に当たるが、 七代に嫡子が居なかったため、養子として迎えられた。文化十三(1816)年に、七代目が二十八歳で急死すると、 弱冠十七歳で八代目を継いだ。活躍期は天保八(1837)年〜安政六(1859)年。鍋島藩で重要視された刀工で、 大砲や軍艦の製造にも深くかかわるなど、鍋島藩近代化に重要な役割を果たした。

 

※ 忠吉家:肥前國忠吉は初代の橋本新左衛門(元亀三(1572)年〜寛永九(1632)年)から九代(天保三(1832)年〜明治十三(1880)年)まで続いた名門で、二代を除いて五字忠銘(肥前國忠吉)が存在する。
 


明治十九年制陸軍武官(佐官)正剣(蜻蛉剣)と日本刀仕込みの陸軍武官(尉官)正剣(蜻蛉剣)拵

 

è  日本刀仕込みの正剣 ― 2/大禮佩剣拵「日置藤原兼次作」一尺九寸八分

(2020.09.22)