帝政ロシアの通貨事情

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帝政ロシアの銀行制度

 

農奴解放令以前の諸銀行

1861年の農奴解放以前には、ロシアは多かれ少なかれ自給自足的農奴経済のもとに存立していたため、銀行制度は極めて未熟なものであり、その経営は不健全、不確実、不統一であった。

国立貴族援助銀行および国立商業銀行
エリザヴェータ女帝 Елизавета Петровна, 1709-1762 の治世下 (1741〜62年) の1754年に、2つの国有・国営銀行 「国立貴族援助銀行 Государственный вспомогательный банк для дворянства」 と 「国立商業銀行 Государственный коммерческий банк」 が設立された。 このうち国立貴族援助銀行 (貴族銀行 Дворянский банк) は、元老院に付属しており、地主である貴族に対して、彼らの所有する土地を抵当として長期信用を付与した。 また、国立商業銀行 (商人銀行 Купеческий банк) は、エリザヴェータ女帝の1754年5月13日の勅令によって、ロシアで最初の貿易銀行として設立され、サンクトペテルブルグ港で貿易を営む商人に対して、彼らの貨物を抵当として貸付を行うことを命ぜられていた。 しかし、これらの銀行は、健全な金融活動を行っておらず、1762年に政府は、商業銀行に対して 「社会全般の福祉のために」 為すべきとおりの業務を行っていないこと、そして同行が付与した貸付が依然として第一借手の手許に滞納していることを告知した。

1770年に商業銀行は貸付停止を命ぜられ、1782年には全く閉鎖されて、同行の資産は貴族援助銀行に移管された。 その貴族援助銀行も、経営の失敗、正当な記帳を怠っていたこと、不確実な貸付を行ったことなど理由によって、1786年に廃止された。

国立アシグナーツィア銀行
エカテリーナ二世 Екатерина II Алексеевна, 1729-1796 の治世下 (1762〜96年) の1768年に、アシグナーツィア紙幣の普及と銅貨への兌換のために、国立アシグナーツィア銀行 Государственнный ассигнационнный банк がサンクトペテルブルグとモスクワに設立された (1843年に廃止)。
è  帝政ロシアの紙幣 / アシグナーツィア

国立貸付銀行
廃止された国立貴族援助銀行に代って、貿易・農業の保護、地主貴族階級への貸付を目的として、元老院の付属として、1786年に 「国立貸付銀行 Государственный заемный банк」 が設立された (1850年代末まで存続)。 しかし、依然として貸付拡張の根底には不公平が潜んでおり、債務者から貸付金を回収することが困難であるという理由により、同行の閉鎖が勧告された。 それにもかかわらず、貴族階級の財産を維持することは極めて必要であるとして、銀行は依然として旧態な経営を継続した。

国立商業銀行
1817年5月17日に、貿易および産業補助を目的とした国立商業銀行 Государственный коммерческий банк 設立に関する布告が出され、翌1818年1月2日に国立商業銀行は開店した。

クリミア戦争(1854〜56年)の間、ロシア政府はインフレーション政策を採っていたが、その結果として、1855年初めに8億7300万ルーブルであった銀行預金総額は、1857年中頃までに12億7600万ルーブルに増加した。 この新規に造り出された4億ルーブルもの預金の投資先を新たに創出することは困難であった。 しかし、銀行はこれらの預金にも4%の利息を支払うことを余儀なくされたので、各銀行は政府に援助を求めた。

ロシア国内の鉄道輸送網の拡大を計画していた政府は、1957年7月20日、銀行に対して、鉄道開発を目的とする新設会社に預金の一部を投資することを認可する代りに、4%の預金金利率を3%に引下げることを命じた。 これと同時に、政府は5%利付鉄道債に対して補償をした。 このことは、1857年後半に株式会社の設立が時の人気に投じていたことと相俟って、銀行預金の減少を招くことになり、1857年に12億7600万ルーブルであった銀行預金総額が、1859年には9億7000万ルーブルに減少し、同期中に手持現金高は1億4000万ルーブルから2000万ルーブルに低落した。

銀行の証券手持は、貴族への長期貸付と政府貸上金よりなる 「凍結」 資産があるのみであった。 政府は、銀行預金引き上げの趨勢を阻止するための処置として、株式会社の新設を当分の間禁止した。 銀行からの借入は困難となり、最後にはそれも停止されてしまった。 国庫は、銀行に対して7400万ルーブルの融資を行うことになり、その目的で約3350万ルーブルの国家信用券 (国庫紙幣) を新たに発行した。 また、イギリスより1200万ポンド (約7560万ルーブル) の借款を行うと共に、4%の利付証券の発行によって、国内で約2300万ルーブルの借入を行った。 しかし、取り付けは依然として熄まなかった。 そこで、政府は、何の役にも立たなくなったような古い信用機関の整理を行うことに決定した。 1859年9月1日、政府は銀行に対して、「5%銀行券」 を預金証書所有者に対して発行することを命じた。

 


 

国立銀行の設立 ― 1860年

1860年5月31日、「貿易を促進し、通貨を安定させる」 ことを目的に、ロシアにおける中央銀行としての 「国立銀行 Государственный банк Российской Империи」 が誕生した (同年7月2日業務開始)。 国立貸付銀行 Государственный заемный банк (貿易・農業の保護、地主貴族階級への貸付を目的として、1786年に設立) は閉鎖されて、その業務はサンクトペテルブルグにある政府の貯蓄機関に移管され、その他の各種の貯蓄機関は業務を整理・解散するよう命ぜられ、その預金は全て国立銀行に移管された。 また、国立商業銀行 Государственный коммерческий банк (貿易および産業補助を目的として1817年5月17日に設立) の業務は、旧預金に対する支払責任を包括している国立銀行に移管された。

旧国立商業銀行が再組織された国立銀行は、以前の信用機関と同様、政府の所有に属し、財務大臣の管轄下に置かれて、同大臣が一般的諸政策を指令したが、銀行の直接的運営は、「総裁 Управряющий (親任官)」 および理事会が管掌した。 政府は国立銀行の資本金を当初1500万ルーブルとし、国家信用券 (国庫紙幣) の兌換準備金として300万ルーブルの積立を命じ、また、同行に対して、毎年度利益金の3分の1以内を、その目的のために保留することを認めた。

国立銀行の最初に制定された定款が同行に対して認めた業務は、商業手形割引、貴金属・財貨・政府証券ならびに政府補償証券抵当貸、定期預金ならびに当座預金の預入、金・銀・ならびに証券類の売買、および送金などであった。 銀行によって行われた貿易、産業、農業の促進についての発展から、円滑を欠くに至ったので、その結果、1894年にこれらの定款の根本的改正が行われるに至った。 この時に、銀行は次のような業務を行う権限を付与された。 すなわち、定期・当座各預金の預入、2名あるいはそれ以上の複名商業手形の割引、政府ならびに一般証券・財貨・船積証書および倉庫証券に対する直接的および仲介業者を通じての抵当貸付、活動資本を提供する目的をもって農業および産業に従事する人々に対する不動産およびその他証券類抵当貸付、購入物件を担保として、農具および機械類の購入資金の貸付、証書および財貨担保の特別当座預金口座の開設、証券類・内外為替手形・貴金属その他の売買。

最初の定款でも、また1894年に改正された定款においても、国立銀行に対して銀行券の発行を認めていなかった

国立銀行は、使い古した紙幣の新しいものへの交換、紙幣の両替、金属貨幣への兌換などの義務を負っていたが、兌換紙幣そのものは国庫が発行していた (国庫紙幣)。
国立銀行は特殊部門をその貸借対照表のうちに設けて、これを証券部に占有させ、その項目の一方には兌換流通高を示し、他方には国家より国立銀行に移管された確実準備高を示し、この2つの勘定の差額は国庫に対する債権(すなわち、国庫債務)を示していた。

兌換券の発行権を持たなかった国立銀行に発行権が付与されるのは、1897年8月29日のことである。 兌換券発行量は、法規に基づき、流通の必要によって厳重に制限され、発行高が6億ルーブルを超えない場合は、その半額まで金によってカバーされるべきものとされ、この金額以上の信用券は、全額すべて金によってカバーされるべきものとされた。

1899年6月7日の法令によってロシアが単一の銀本位のもとにあっ際に編制された貨幣条例は改訂され、ロシアの金本位通貨制度は名実ともに確立されたのである。

 

ロシアの商業銀行

国立銀行が1860年に設立されたことに続いて、1864年にはロシアで最初の株式商業銀行として、ペテルブルグ商業銀行が設立され (創立当時の資本金は200万ルーブル、まもなく500万ルーブルまで増資された) 、その後の5年間に5つの株式商業銀行が設立された。

 

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