19世紀の貨幣流通
19世紀を通して、ロシアの通貨の基本は、純銀 4ゾロトニク21ドーリャ (17.996グラム) を含む
銀ルーブルであった。
そのほか、金属貨幣としては、より高額面の金貨幣、低額面の補助銀貨幣、銅貨幣と、1828〜45年の短期間にプラチナ貨幣が発行された。
また、19世紀の前半にはアシグナーツィアと呼ばれる紙幣、後半には国家信用券 (国庫紙幣) が流通していたが、
1897年には幣制改革が行われてロシアの貨幣制度は金本位制に移行し、金で保証された新しい型式の国家信用券 (国立銀行券) が発行された。
当時のロシア領ポーランド地区およびフィンランドでは、それぞれ独自の貨幣が製造され、流通していたが、本稿では割愛する。
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19世紀には、前世紀末に即位したパーヴェル一世以降、6人の皇帝が在位した。
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1796〜1801年
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パーヴェル一世 Павел I Петрович, 1754-1801
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1801〜1825年
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アレクサンドル一世 Александр I Павлович, 1777-1825
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1825〜1855年
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ニコライ一世 Николай I Павлович, 1796-1855
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1855〜1881年
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アレクサンドル二世 Александр II Николаевич , 1818-1881
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1881〜1894年
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アレクサンドル三世 Александр III Александрович, 1845-1894
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1894〜1917年
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ニコライ二世 Николай II Александрович, 1868-1918
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金貨幣
金貨はロシアの貨幣流通制度の基礎を成す完全な実体価値を持った貨幣で、1897年の金本位制移行までは、額面価格ではなく、含有する金の重量に準じて通用した。
19世紀のロシアの金貨1金ルーブル当りの量目、品位、純金量は次のように推移した。
1金ルーブルの量目、品位、純金量 (単位:ゾロトニク法、括弧内はメートル法)
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年 |
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量目 |
品位 |
純金量 |
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1798-1816 |
d |
25.10д. (1.22g) |
94 2/3 (986) |
24.75д. (1.20g) |
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1817-1885 |
e |
27д. (1.31g) |
88 (917) |
24.75д. (1.20g) |
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1886-1896 |
f |
29.045д. (1.29g) |
86 2/5 (900) |
26.14д. (1.16g) |
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1897-1911 |
g |
19.36д. (0.86g) |
86 2/5 (900) |
17.42д. (0.77g) |
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註:ゾロトニク法品位は96分中、メートル法品位は1000分中の純金の割合を表わす。 表中のз.はゾロトニク золотник 、д.は ドーリャ доля の略。 |
1金ルーブルの量目 (上段) と純金量 (下段) の推移
金貨は5ルーブルおよび 10ルーブルの額面で製造されたほか、1869〜85年には3ルーブル金貨 (量目3.926グラム、品位1000分中917、純金量3.60グラム) が製造され、1897年には金本位制度移行にともない、15ルーブル (それ以前の10ルーブル金貨と等価) と7 1/2ルーブル (同じく5ルーブル金貨と等価) の額面の金貨が製造された。
5ルーブル金貨 : 1839年、ニコライ一世治下
本位銀貨幣 (1ルーブル銀貨) および高額面補助銀貨 (50および25コペイカ銀貨)
1897年の幣制改革によって金本位制へ以降するまで、ロシアの貨幣流通制度の基礎を成す本位貨幣は額面1ルーブルの銀貨であった。
また、補助貨幣のうち、比較的高額面の50および25コペイカ銀貨は、それぞれ1ルーブル銀貨の1/2および1/4の純銀量を含有していた。
19世紀のロシアにおける1ルーブル銀貨および高額面補助銀貨1銀ルーブル当りの量目、品位、純銀量は次のように推移した。
1銀ルーブルの量目、品位、純銀量 (単位:ゾロトニク法、括弧内はメートル法)
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年 |
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量目 |
品位 |
純銀量 |
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1798-1885 |
i |
4з. 82 14/25д. |
(20.7315g) |
83 1/3 |
(868) |
4з. 21д. |
(17.996g) |
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1886-1915 |
j |
4з. 66д. |
(19.996g) |
86 2/5 |
(900) |
4з. 21д. |
(17.996g) |
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註:ゾロトニク法品位は96分中、メートル法品位は1000分中の純銀の割合を表わす。 表中のз.はゾロトニク золотник 、д.は ドーリャ доля の略。 |
1銀ルーブルの量目 (上段) と純銀量 (下段) の推移
ヨーロッパ諸国では、金銀比価は1870年以前には1対15.5、1870〜1900年には1対33となっていたが、ロシアでは、1885年以前は1対15、1886〜1896年の間は15.5となっていたことになる。
金本位制移行の1897年当時には金銀比価は1対34.34となっており、1ルーブル銀貨および50、25コペイカ銀貨に含まれる純銀分の価値は名目価格の約 67%であった。
1ルーブル銀貨 (1839年、ニコライ一世治下)
1ルーブル銀貨 : 1861年、アレクサンドル二世治下
低額面補助銀貨 (20、15、10、5コペイカ銀貨)
低額面の補助銀貨として、1859年までは20、10、5コペイカの3種類、1860年以降は20、15、10、5コペイカの4種類の額面の銀貨が発行されていた。
1859年までは、これらの低額面銀貨に含まれる純銀分の価格は名目価格に等しかったが、その後は漸次減少し、1867年以降は、その1ルーブル分の銀含有量は1ルーブル銀貨の半分になった。
従って、1897年の幣制改革当時には、その純銀分の価値は名目価格の33〜34%に等しかった。
補助銀貨1ルーブル当りの量目、品位、純銀量 (単位:ゾロトニク法、括弧内はメートル法)
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年 |
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貨幣の量目 |
品位 |
純銀量 |
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1798-1810 |
l |
4з. 82 14/25д. (20.7315g) |
83 1/3 (868) |
4з. 21д. (17.996g) |
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1810-1812 |
m |
5з.60д. (24.00g) |
72 (750) |
4з. 21д. (17.996g) |
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1813-1859 |
n |
4з. 82 14/25д. (20.7315g) |
83 1/3 (868) |
4з. 21д. (17.996g) |
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1859-1866 |
o |
4з.75д. (20.39g) |
72 (750) |
3з.56д. (15.30g) |
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1867-1917 |
p |
4з. 21д. (17.996g) |
48 (500) |
2з. 10 1/2д. (8.998g) |
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註:ゾロトニク法品位は96分中、メートル法品位は1000分中の純銀の割合を表わす。 表中のз.はゾロトニク золотник 、д.は ドーリャ доля の略。
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補助銀貨1ルーブル当りの量目 (上段) と純銀量 (下段) の推移
5コペイカ銀貨 : (左) 1810年、アレクサンドル一世治下。 (右) 1839年、ニコライ一世治下
銅貨
アレクサンドル一世の治世下の1802-1810年には、銅1プード (16.38kg) で16ルーブルに相当する銅貨が、5、2、1コペイカおよびヂェンガ (1/2コペイカ)、ポルーシカ (1/4コペイカ) の5種類の額面で、ロシアの伝統を踏襲して製造された。
1810〜30年の間は、銅1プード当り24ルーブルと軽量化されて製造されたが、1830〜39年にはさらに軽量になり、銅1プード当り36ルーブルとなった。
E.F.カンクリンによる幣制改革の結果、1839年にロシアの貨幣制度が公式に銀本位制に移行したことに伴って、1839〜48年には、銅1プード当り16ルーブルに相当する銅貨が、3、2、1、1/2、1/4銀コペイカの5種類の銀に基づいた額面表記 (銀コペイカ) で発行された。
1849〜66年には、銅1プード当り32ルーブルになり、5、3、2、1コペイカおよびヂェネーシカ (1/2コペイカ)、ポルーシカ (1/4コペイカ) の6種類の額面で発行された (これらの銅貨の額面表記は元に戻っている)。
1867には、銅1プード当り50ルーブル相当で、5、3、2、1、1/2、1/4コペイカの、6種類の額面の銅貨が、ロシア革命が起る1917年まで発行された。
この時期の銅の素材価格は1プードが約10ルーブルであり、この時期の銅貨の素材価値は名目価格の五分の一であったことになる。
銅貨1ルーブル当りの量目 (単位:ゾロトニク法、括弧内はメートル法)
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年 |
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1ルーブル当りの量目 |
銅1プード当りルーブル |
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1797-1810 |
n |
2ф. 48з. (1024g) |
16ルーブル |
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1810-1830 |
o |
1ф. 64з. (683g) |
24ルーブル |
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1830-1839 |
p |
1ф. 10з. 64д. (455g) |
36ルーブル |
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1839-1848 |
q |
2ф. 48з. (1024g) |
16ルーブル |
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1849-1867 |
r |
1ф. 24з. (512g) |
32ルーブル |
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1867-1917 |
s |
76з. 76 4/5д. (327.6g) |
50ルーブル |
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註:表中のф.はフント фунт、з.はゾロトニク золотник 、д.は ドーリャ доля の略。
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銅貨1ルーブル当りの量目の推移
3コペイカ銅貨 : 1848年、ニコライ一世治下
3コペイカ銅貨 : 1865年、アレクサンドル二世治下
プラチナ貨幣
1822年、ウラル地方の金鉱山で1819年に発見された重い白色の金属が、エカテリンブルグの鉱業試験所の所長 I.ヴァルヴィンスキー Иов Игнатьевич Варвинский, 1797-1838 によって白金族金属であることが確認された。
1825年にこのウラル産の天然プラチナ180kgがペテルブルグに集められた。
財務大臣で鉱業大臣を兼務していたE.F.カンクリンは、国民経済を強化し国庫の枯渇を救う手段にこの新しい金属を利用することを思い立ち、1828年から額面3、6および12銀ルーブルでプラチナ貨幣を発行した。
プラチナ貨幣は1845年まで18年間にわたり発行され、合計約15トンのプラチナが使用された。
3ルーブル貨は2ゾロトニク41ドーリャ (10.354グラム)、6ルーブル貨は4ゾロトニク82ドーリャ (20.708グラム)、12ルーブル貨は9ゾロトニク68ドーリャ (41.416グラム) のウラル産プラチナを含有しており、これら3種類のプラチナ貨は、銀に基づいた額面表記 (銀ルーブル) で発行されている。
したがって、ロシアにおける当時のプラチナ:金:銀の比価 (価値比率) は、凡そ2.877:1:15 であったことになる。
プラチナ貨幣 (額面3銀ルーブル) : 1839年、ニコライ一世治下
紙幣
1769年〜19世紀の中頃までは、「アシグナーツィア」 と名付けられた紙幣が流通していた。
アシグナーツィア紙幣は、当初は銅貨と、後に銀貨と兌換されることになっていたが、度重なる戦争の戦費調達のために増発を繰り返し、兌換が停止されて、その価値は下落し続けた。
1843年に銀兌換が保証された 「国家信用券 (国庫紙幣)」 が発行されて、アシグナーツィア紙幣と交換され、アシグナーツィア紙幣は回収された。
クリミア戦争 (1853〜56年) が勃発すると、国家信用券の兌換 (正貨支払) は停止され (1854年)、その流通量は膨張し、1857年末には国家信用券の価値は従来の65%に下落した。
引き続く戦争による戦費調達のため、国家信用券は更なる増発によって価値がますます下落し、国家信用券1ルーブルは銀60コペイカにも満たない有様となった。
1897年、ヴィッテによる幣制改革で、国家信用券の法定価格が三分の二に切り下げられ、
1897年8月29日 (9月10日) の発行紙幣に対する正貨確保の法律に基づいて、国立銀行が従来と同じ 「国家信用券」 の名称で (ただし、こちらの方は国立銀行券)、額面1、3、5、10、25、50、100 および 500ルーブルの金兌換を原則とする新しい型式の紙幣を発行した。
金で表現され、かつ金で完全に保証されたこの紙幣は金貨と同様に無制限の法貨として、その価値は1914年に第一次大戦が勃発するまでは比較的安定していた。
帝政ロシアの紙幣についての詳細については、次へ進まれたい。
è帝政ロシアの紙幣
貨幣のイラスト図版は V.I.Petrov "Catalogue des monnaies russes" 1899 (リプリント版 1964) より転載した。
また、貨幣の量目、品位、純金量の推移データは В.В. Уздеников "М ОНЕТЫ РОССИИ. 1700-1917" 1985 より引用した。
1897年の幣制改革以降、帝政末期の、金本位制のもとでの貨幣流通については、次へ進まれたい。
è(ロシア革命の貨幣史)帝政末期の貨幣流通
ロシア貨幣の呼称・俗称については、次を参照されたい。
è
ロシア貨幣の用語集
はじめに /
ピョートル大帝の幣制改革 /
18世紀の貨幣流通 /
19世紀の貨幣流通 /
帝政ロシアの紙幣 /
ドストエフスキーの世界
ロシア革命の貨幣史
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