帝政ロシアの通貨事情 / ピョートル以前 |
コペイカ事始 Немного о серебряных "проволочных" копейках
時が経つと、公国ごとにヂェンガの重量規準が変化してきて、貨幣発行地の勘定ごとに換算が必要になってきた。 16世紀になると、ノヴゴロドのヂェンガの重さはモスクワのヂェンガの2倍を超えるようになった。 モスクワ大公国が他の公国を従属させ、ロシア国家の中央集権化を強化するに伴って、地域的な貨幣制度の統一が不可欠になってきた。 1533年にイヴァン・ヴァシリエヴィチ Иван Васильевич, 1530-84 が3歳でモスクワ大公に即位し (イヴァン四世)、彼の母エレーナが摂政に就任すると、 1534年から 「エレーナ・グリンスカヤの改革 денежная реформа Елены Глинской」 として知られる幣制改革が始まった。 エレーナの改革の本質は、古い貨幣の流通の全面的禁止と、造幣率 монетная стопа (独 Münzfuß) の引下げによって製造される新しい貨幣の制定にあった。 新しい貨幣制度は、諸公国割拠の時代の終わりに最も有力であったモスクワとノヴゴロドの2つの貨幣制度の先駆的融合の基礎の上に作られた。 この改革では、モスクワのヂェンガ 「モスコフカ московка」 とノヴゴロドのヂェンガ 「ノヴゴロドカ новгородка」 が標準貨幣として制定され、銀1グリヴェンカ (204.75グラム) からノヴゴロドカ300個 (改革前は260個)、またはモスコフカ600個 (改革前は520個) が製造された (幣制改革は、当時の常として、新しい貨幣の軽量化を必然的に伴ったのである)。 この造幣率からノヴゴロドカの平均の重さは0.68グラム、モスコフカは平均0.34グラムとなり、ノヴゴロドカ1個はモスコフカ2個と等しいものとされた。 また、ノヴゴロドカ100個は1勘定ルーブルを成すものとされた。
「ヂェンガ денга」 は、18世紀末から деньга と綴られるようになった。
従来よりロシアでは、貨幣の製造は、銀塊を細く延ばして針金状にし、適当な量に等しく切り分け、平らに叩き延ばして銀の断片を造った。 そのため、その形状は不揃いな楕円形で、従って、その断片に打刻された模様や銘文も完全なものは極めて稀である。 当時の貨幣は、秤量 (ひょうりょう) 貨幣としての色彩が強く、貨幣上に額面額は表記されていない。
イヴァン四世 ―― モスコフカ (モスクワの重量基準によるヂェンガ) |
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表面 : 太刀を振りかざして疾駆する騎乗の大公像。 馬の下に W の文字。
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表面 : 太刀を振りかざして疾駆する騎乗の大公像。
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イヴァン四世 ―― ノヴゴロドカ (ノヴゴロドの重量基準によるヂェンガ) |
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表面 : 太刀を振りかざして疾駆する騎乗の大公像。 Мечевая копейка |
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イヴァン四世 Иван IV Васильевич, 1530-84 は、 モスクワ大公 (在位1533〜47年)、モスクワ・ロシアの初代ツァーリ (在位1547〜74年、1576〜84年)。 政敵に加えた刑罰が余りに苛責であったため、恐怖とある種の畏敬の念から 「グローズヌイ Грозный」 と呼ばれた (日本では 「雷帝」 と命名されている)。 彼の治世に、ロシアは強大な中央集権国家となり、外威また大いに振った。 モスコフカ (モスクワのヂェンガ) にも 「太刀を持つ騎士」 の図柄が描かれているが、ここに掲載したプスコフ造幣廠で製造された 「ノヴゴロドカ」 は、その重量 (0.68グラム) がモスコフカの2倍である。
イヴァン四世 ―― コペイカ銀貨 |
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表面 : 槍を持ち、聖ゲオルギーに擬した騎乗のツァーリ。 馬の下に ПС の文字。
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表面 : 槍を持ち、聖ゲオルギーに擬した騎乗のツァーリ。 馬の下に ГР の文字。
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フョードル一世 ―― コペイカ銀貨 |
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表面 : 槍を持ち、聖ゲオルギーに擬した騎乗のツァーリ。 馬の下にプスコフ製造を示す ПС の文字。
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フョードル一世 Фёдор I Иванович, 1557-98 はモスクワ・ロシアのツァーリ (在位1584-98年)。 イヴァン四世の三男であったが、1581年に兄イヴァンが父イヴァン四世に誤って殺害されると、思いがけず後継者となって1584年に即位、後継ぎがないまま1598年に崩御した。 後継者を指名しなかったため、全国会議が摂政ボリス・ゴドゥノフをツァーリに選出した。
フョードル一世の治世下、少しの期間、ノヴゴロド造幣廠で製造されたコペイカ貨幣に発行年号が表記されたが、このとき他の造幣廠ではこの習慣は一般的にならなかった。
ボリス・ゴドゥノフ ―― コペイカ銀貨 |
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表面 : モノマフの帽子を被り、槍を持ち、聖ゲオルギーに擬した騎乗の皇帝。 ツァーリ像の左右に Б О の文字 (大主人の意)。 馬の下にモスクワ製造を示すモノグラム Мо。
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ボリス・ゴドゥノフ Борис Фёдорович Годунов, 1551-1605 は、 モスクワ・ロシアのツァーリ (在位1598-1605年)。 成上り貴族の出身であったが、フョードル一世の摂政で事実上の統治者となる。 イヴァン四世 (雷帝) の政策を受け継ぎ、士族階級の立場の強化、農民の奴隷化の強化、専制政治の強化、ロシア国家の拡張をはかったが、貴族階級の不満は高まった。 また、ボリスの治世下で強化された農民の奴隷化は、農民一揆の激化を招いた。 フョードル一世の異母弟で後継者であったドミトリイ (1582-91) が謎の死を遂げると、ボリスの指示によって暗殺されたとの噂がたった。 ポーランドの封建貴族は、ボリスの死に乗じて、偽ドミトリイ一世、二世を擁立して、ロシアをポーランドに従属させようとした。
ヴァシーリー・シュイスキー ―― コペイカ銀貨 |
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表面:槍を持ち、騎乗のツァーリ(皇帝)。
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ヴァシーリー・シュイスキー Василий Иванович Шуйский , 1552-1612 は、モスクワ・ロシアのツァーリ (在位1606‐10年)。 彼の治世下、国内は分裂状態にあり、スウェーデンの支持によってのみ帝位を保つことができた。 1610年、彼はスウェーデン傭兵への支払のため国庫の銀をすべて枯渇させた、と云われる。 およそ1世紀の間、約0.68グラムの量目を維持したコペイカは、1610年のポーランドおよびスウェーデンの侵入の開始に当って、0.56グラム、次いで0.48グラムへ減量された。 そして、その後の数年間、干渉者たちは軽量のコペイカを発行した。
ミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフ ―― コペイカ銀貨 |
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表面:槍を持ち、騎乗の皇帝。 馬の下に、モスクワ製造を示す Мо の文字。
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表面:槍を持ち、騎乗の皇帝。 馬の下に、モスクワ製造を示す oМ の文字。
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ミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフ Михаил Фёдорович Романов, 1596-1645 は、モスクワ・ロシアのツァーリ(在位1613-45年)で、ロマノフ朝初代の君主。 1613年、全国会議でツァーリに選出され、動乱の時代は幕を閉じた。
アレクセイ・ミハイロヴィチ ―― コペイカ銀貨 |
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表面:槍を持ち、騎乗のツァーリ(皇帝)。
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アレクセイ・ミハイロヴィチ Алексей Михаилович, 1627-1676 は、モスクワ・ロシアのツァーリ (在位:1645-1676年)、ピョートル一世の父。 幣制改革の試み
1654年初頭、国庫に備蓄されていたターレル銀貨に騎乗の皇帝像と銘を打刻して ルーブル銀貨 として発行したが、実体価値が旧来のコペイカ銀貨の64個分しかなかった。
この実体価値のないルーブル銀貨を人々が拒否したため、翌1655年には貨幣制度を旧来のコペイカ銀貨に基づく単一の度量衡へ回帰させ、ターレル銀貨に2つの刻印 (騎馬像の円形の刻印と年号の 「1655」 の四角形の刻印) を打刻して、64コペイカの価値を持つロシア貨幣として発行した。
「めじるし付きのイェフィモク Ефимок с признаком 」 と呼ばれたこの貨幣は公定規格通りの (完全な実体価値を持った) 貨幣となったのである。
アレクセイ・ミハイロヴィチ ―― コペイカ銅貨 |
Медная копейка царя Алексея Михайловича, которая выпускалась в 1650-х гг. вместо серебряной.
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ウクライナをめぐるポーランドとの戦争 (1654-67年) は、ロシアの国家財政を逼迫させ、国民生活を困窮させた。 戦費調達の行き詰まりと銀素材としての外国銀貨の流入減少のため、1655年末、政府は旧来のコペイカ銀貨を流通させたままコペイカ銅貨の発行を始めた。 新しく製造されることになった銅貨とコペイカ銀貨の価値は同等とされた。 政府は、国庫に入れる税には銀貨を要求し、兵士などへの俸給には銅貨をもってした。 膨大な量のコペイカ銅貨が発行され、その偽造も大量に現れたため、コペイカ銅貨の価値は急速に下落し、物価が高騰した。 1662年7月25日、モスクワの民衆は、コペイカ銅貨の廃止などを要求して暴動を起こした (銅貨一揆 Медный бунт)。 翌1663年には勅令によってコペイカ銅貨は廃止された。 |
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アレクセイ皇帝の幣制改革は頓挫したが、コペイカ銅貨とルーブル銀貨を基本とする貨幣制度の企図は、彼の息子であるピョートル・アレクセーエヴィチ (ピョートル一世) に引き継がれることになる。
ピョートル一世 ―― コペイカ銀貨 ピョートル一世 Пётр I Алексеевич, 1672-1725 は、モスクワ・ロシアのツァーリ(在位:1682-1725年)、初代の皇帝(インペラトール / 在位:1721-25年)。 大帝 Великий。 ピョートル・アレクセーエヴィチはロシア暦 (ユリウス暦) の1672年5月30日 (現行暦=グレゴリオ暦では6月9日) に生まれた。 1676年に父アレクセイ・ミハイロヴィチ帝が死去すると異母兄のフョードル三世が即位するが、1682年に兄フョードルが死去すると、ピョートルは10歳で帝位を宣示された。 しかし、即位後まもなく、異母兄イヴァン・アレクセーエヴィチとの共同統治を余儀なくされ、異母姉ソフィアが摂政として実権を握ることになった。 1689年に摂政ソフィアが失脚し、1696年に名ばかりの共同統治者イヴァン (五世) が死去すると、ピョートルの単独統治になった。 共同統治の時代 (1682〜96年) のコペイカは、基準重量0.42グラム、実重量0.40グラムで製造された。 1696〜97年には、貨幣は基準重量0.40グラムで製造されたが、1698年1月、コペイカの重量は (将来の貨幣制度を見据えて) 0.28グラムに減量され、1698年には二つの重量基準の貨幣が造られた。
ピョートルは父アレクセイ皇帝の幣制改革失敗の轍を踏まないよう、慎重に事を運んだ。
ピョートル一世は、18世紀初頭に始まる新しい貨幣制度の基礎にルーブル銀貨とコペイカ銅貨を採用することになるが (新しい貨幣制度にそれらの額面貨幣が加わるのは1704年のことになる)、将来のルーブル銀貨の量目を、当時国際的な標準規格であったヨーロッパ諸国のターレル銀貨の量目と同じく28グラムと定め、1698年にコペイカ銀貨の重量を (イヴァン雷帝当時の4割ほどでしかない) 0.28グラムにまで軽量化させたのである。
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表面:槍を持ち、騎乗のツァーリ(皇帝)。
馬の下に年号1701年の 文字表記 ҂яѱя。
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表面:槍を持ち、騎乗のツァーリ(皇帝)。
馬の下に年号1703年の 文字表記 ҂яѱг。
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表面:槍を持ち、騎乗のツァーリ(皇帝)。
馬の下に年号1703年の 文字表記 аѱг。
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表面:槍を持ち、騎乗のツァーリ(皇帝)。
馬の下に年号1705年の 文字表記 аѱЕ。
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1700年に、深刻な小銭不足に対処するため、ヂェンガ (1/2コペイカ)、ポルーシカ (1/4コペイカ) 、ポルポルーシカ (1/8コペイカ) など、コペイカよりも低額面の新しい様式の銅貨が発行され、さらに翌1701年にはポルチーナ (50コペイカ)、ポルポルチンニク (25コペイカ)、グリヴェンニク (10コペイカ)、10ヂェンガ (5コペイカ)といった、新しい一連の銀貨が発行された。 これらの新貨幣は機械で製造され、それまでのコペイカ銀貨と異なり、大きなサイズと正円形を特徴としていた。 そして、1704年になって、ようやく新しい様式の ルーブル銀貨とコペイカ銅貨 が登場し、アレクセイとピョートルの親子2代にわたる幣制改革が完了することになる。 銀の針金の断片にハンマー式の極印打刻によって製造されていた従来のコペイカ銀貨 (ワイヤ・コペイカ "проволочная" копейка ) の製造は、1718年1月に全ての造幣廠で停止された。
ピョートル一世 ―― コペイカ銅貨 (?) |
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表面:槍を持ち、騎乗のツァーリ(皇帝)。
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ピョートル一世治下における銅のワイヤ貨幣については、V.I.Petrov "Catalogue des monnaies russes 980-1899" Moscou 1899 (リプリント版 Graz 1964) などに記載はあるが、 詳細は不明である。
新様式のコペイカ銅貨
1700年から機械で製造された円形のヂェンガ (1/2コペイカ) 銅貨、ポルーシカ (1/4コペイカ) 銅貨、ポルポルーシカ (1/8コペイカ) 銅貨の流通が開始され、補助貨幣の基本であったコペイカ銅貨の製造は1704年に始まった。
この新しい様式の銅貨には、文字表記 で発行年が刻まれており、1700年には、1プード (16,380グラム) の銅から12.8ルーブル分の銅貨が製造されたが、 この数量は1702年には15.4ルーブル分にまで増え、1704年には20ルーブル分、1718年からは1プードで40ルーブル相当の銅貨が製造された。
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表面:中央に、槍を持つ騎乗のツァーリ(皇帝)の像。 その下部に БК (カダシェフスキー造幣廠 )のマーク。
周囲に、「ツァーリ(皇帝)にして大公ピョートル・アレクセーエヴィチ ЦРЬ І ВЕЛИКІИ КНЗЬ ПЕТРЪ АЛЕѮІЕВИЧЪ」 の銘。 縁に点線の縁飾り。 | |
新様式の低品位コペイカ銀貨 ―― 最後のコペイカ銀貨(1718年製造) 1713、14、18年の短期間、銀の針金から作られ不規則な形状のコペイカ銀貨の製造がまだ続いていた時期に、円形の新しい様式のコペイカ銀貨が少量発行されている。 このコペイカ銀貨の重量は、従来のコペイカ銀貨の2倍あったが、銀の品位を半分に (77/96 から 38/96 へ) 落したもの(ビロン貨幣)であった。
ビロン貨幣 биллонная монета) : |
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表 面:中央に、蛇を退治する槍を抱えた騎士(聖ゲオルギーに擬した皇帝 ピョートル一世)の像。 | |
カトリック圏で「聖ゲオルギウス伝説」として知られている物語は、ロシアでは「聖ゲオルギーと蛇の奇跡 Чудо Георгия о змие 」として伝承されており、 そこで退治されるのは「竜 dragon 」ではなく 「蛇 змея 」となっている。 |
ワイヤ貨幣の図柄パターンについては、下記を参照されたい :
《参考》 コペイカ銀貨1枚で、何が買えるか ...? Что можно купить на копейку?
16世紀には、0.68 g のコペイカ銀貨1枚で3 kg のライ麦を買うことができた。 斧は7コペイカ、錠前が5〜10コペイカ、雌牛と馬は1ルーブル (コペイカ銀貨100枚) ずつ。 衣類は比較的高価で、農民のラシャ外套は20〜40コペイカであった。 ピョートル一世の幣制改革によってコペイカが微細な銀貨からサイズの大きな銅貨になった1704年ごろ、肉は1プード (16 kg 強) で30コペイカ、穀物は1プードで10コペイカであった。すなわち、コペイカ銅貨1枚で、500 g ほどの肉、穀物であれば1.6 kg ほどが購入できたことになる。 また、この当時、特殊技能をもたない労働者の1日の平均賃金は5〜8コペイカであった。
"https://www.superjob.ru/community/chat/31884/"
《参考》 「コペイカ」 の今 ... 現在のロシアでは、紙幣や硬貨の発行は 「ロシア銀行 БАНК РОССИИ」 が行っているが、もうかなり前から、コペイカで買える商品はなく、コペイカ硬貨は市中ではほとんど流通しておらず、「コペイカ」 という貨幣単位は日常の市民生活から消え去ってしまっている。 1991年のソヴェト体制崩壊後、国内経済の混乱と深刻なインフレーションによる貨幣価値の暴落のため、通貨としての価値がほとんど消滅した低額面のコペイカ貨幣の製造発行は長らく中止されていたが、1998年初頭に実施された平価切下 (1000分の1のデノミネーション) に伴って発行された 「1997年様式貨幣 (銀行券および硬貨)」 で、額面1および5コペイカなどの低額面コペイカ貨幣は 「安定のシンボル」 として、その製造が復活した。 しかし、金属材料費の高騰による硬貨製造の損失と、 「財布を重くする」 コペイカ硬貨を持ち歩く不便さを感じる市民の 「小銭離れ」 のために、2008年にはロシア銀行で、1および5コペイカの額面貨幣を流通廃止にする可能性について検討され、また、これらの貨幣の金属材料を、より安価な合金に変更することが可能かどうかも検討された。 2008年4月当時、1コペイカの貨幣の製造原価はおよそ30コペイカであった。 さらに製造上のコスト以外に、保管・輸送にもかなり費用がかかる。 2012年の春ごろから、大規模小売商店での支払いには、コペイカを使用せずに、ルーブル以下の端数を切り捨てるようになるなど、小額面コペイカ硬貨の通貨としての需要がなくなり、2012年末からロシア銀行は額面1および5コペイカの貨幣の製造を停止した。 2009年発行の1997様式コペイカ貨幣 1997年以降に発行された 「1997年様式のコペイカ貨幣 копейки образца 1997 года」 には、槍 копьё で 「(有翼の) 蛇 змей 」 を刺している聖大致命者凱旋者ゲオルギー Георгий Победоносец, поражающий копьём Змия が描かれている。 1コペイカ貨幣は、直径15.2 mm、厚さ1.25 mm、重量1.50 gで、材質はバイメタル(鋼に白銅メッキ Биметалл (сталь, плакированная мельхиором))。
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