このような貨幣が比較的容易に入手できることから、政府はアシグナーツィア紙幣の発行量を増加させ、そのため1777年にはその兌換を停止せざるをえなくなった。
1786年には、額面5および10ルーブルのアシニグナーツィア紙幣が発行されたが、それらは銀と交換された。
1784年の勅令によって2千万ルーブル以上のアシグナーツィア紙幣の発行が禁止され、更に1786年の勅令で発行限度が最高1億ルーブルまで引き上げられたにもかかわらず、発行されたアシグナーツィア紙幣の総数は増加の一途をたどり、1795年には1億5千万ルーブル、1800年には2億1250万ルーブルを超えた。
そのため、アシグナーツィア紙幣の価値は低下し、ナポレオンがロシアに侵攻する以前の1810年に、アシグナーツィア紙幣の流通高が5億3300万ルーブルに過ぎなかった時期においてすら、1銀ルーブルはアシグナーツィア紙幣で約4ルーブルに等価となっていた。
ナポレオン戦争後の1817年までに8億3600万ルーブものアシグナーツィア紙幣が発行され、これに伴って、アシグナーツィア紙幣の購買力は更に急落した。
このように、アシグナーツィア紙幣が短期間に減価した結果、「物価は急騰し、財産関係はその基礎を喪失し、信用取引は極度の困窮を告げるに至り、生産は投機的様相を帯び、かくして国民の経済生活の根底が動揺した」 のであった。
このような弊害を是正する目的のもと、アレクサンドル一世 Александр I Павлович, 1777-1825 の治世下 (1801〜25年) の1810年6月20日に、国家顧問官 Государственный деятель M.M.スペランスキー Михаил Михайлович Сперанский, 1772-1839 は幣制改革案を建言した。
スペランスキーの幣制改革案は、銀ルーブルを以て国家の貨幣単位とする旨を宣明し、アシグナーツィア紙幣の発行は停止して、アシグナーツィアに代り、銀に基づいた 「信頼し得る銀行紙幣」 を制定する ввести взамен ассигнаций "верные банковые бумаги", основанные на серебре というものであった。
しかし、1812年にナポレオンとの戦争 (祖国戦争 Отечественная война 1812 года ) が勃発したために、スペランスキーの改革案は葬り去られ、彼は免職された。
新財務大臣C.A.グーリェヴ Дмитрий Александрович Гурьев, 1751-1825 は、1817年にルーブル貨の地位改善の企図を更改した。
借入の方法によって、1817年に8億3600万ルーブルに達していたアシグナーツィア紙幣の総発行高を、1823年には5億9577万6310ルーブルに、すなわち28%を縮減した。
しかし、アシグナーツィアの市場相場の改善はほとんど見るに足るべきものがなく、1817年にアシグナーツィア1ルーブルが25 1/6銀コペイカに相当していたものが、26 3/5銀コペイカと等価交換されるようになったに過ぎず、価格の上では僅かに5%の改善をみたに留まった。
このような改革案が、不賢明で、あまりに高価に失すると考えたグーリェヴの後任E.F.カンクリン Егор Францевич Канкрин, 1774-1845 (1823〜1844年に財務大臣) は、1823年に流通市場からアシグナーツィア紙幣を回収することを停止した。
1839年7月1日に通貨改革がはじまった。
銀ルーブルが標準的貨幣単位 (1銀ルーブルの純銀分は4ゾロトニク21ドーリャ=17.996グラム) である旨が再度発布され、銀ルーブルとアシグナーツィア紙幣の間には一定かつ不変の関係 (1銀ルーブルはアシグナーツィア3ルーブル50コペイカに等しい) が確立された。
国立商業銀行預金紙幣
1840年1月1日、市中から銀を招来することを目的に、国立商業銀行に付属して銀貨預金局が設立された。
預金局は、市民から銀貨で預金を受け入れて、代りに 「預金紙幣 депозитный билет」 を交付した。
この紙幣は、本質的には受取証であったが、法的支払手段であることが公告されており、固定相場によって銀で完全に保証されていて、自由に銀貨と交換できた。
紙幣は先ず、3、5、10および25ルーブルの額面で発行され、その後1、50、100ルーブルが追加された。
1840年末までに2416万9400ルーブルの預金紙幣が流通していた。
銀貨預金局は1843年9月1日まで成功裡に業務を続けていた。
国家信用券
1843年7月1日に、「国家信用券 Государственный кредитный билет」 と称する、金貨または銀貨との兌換が保証された新しい型式の紙幣 (国庫紙幣) が発行された。
この年、アシグナーツィア5億9577万6310ルーブルが1億7022万1800ルーブルの銀貨または国家信用券と交換され、1849年にアシグナーツィアは廃棄された。
ロシア帝国の国立銀行 (1860年創設) に兌換券の発行権が付与されるのは1897年8月29日のことである。
それ以前に発行された 「国家信用券」 は国庫紙幣であり、1898年様式以降の 「国家信用券」 は、金兌換 (1金ルーブルは純金17.424ドーリャ=0.77423グラム) の国立銀行券である。
しかし、クリミア戦争 (1853〜56年) Крымская война が勃発したため、1854年に国家信用券の兌換 (正貨支払) は停止された。
1853年には3億1140万ルーブルであった国家信用券の流通量は、1857年末には7億3530万ルーブルに膨張し、国家信用券の価値は従来の65%に下落した。
1877年のオスマン帝国 (トルコ) との戦争に際して、戦費調達のため国家信用券の更なる増発によって、国家信用券の下落はますます激しく、国家信用券1ルーブルは60銀コペイカにも満たない有様となった。
1860年に国立銀行が新設された。
この当時、1860年代のロシアはクリミア戦争 (1854〜1856年) の後遺症として、財政的および商業的恐慌の真只中にあった。
通貨市場は極度に混乱し、インフレーションとこれに伴ったあらゆる弊害が極点に達していた。
輸出の減少と輸入の増大は国際収支の逆調を招き、過剰な紙幣 (国庫紙幣) の大部分が証券類の購入目的に使用されるようになり、証券相場は暴騰した。
そのため、外国投資家は、ロシア市場にこれら証券類の大量の投売りを行った。
こうしたことによって、ルーブル貨の為替相場の低落と、貴金属の国外輸出が起き、金貨・銀貨はいうにおよばず、銅貨までもが流通市場から姿を消した。
国家の財政破綻を阻止するための印刷機による国庫紙幣 (国家信用券) の増発を防ぐには、政府支出を大幅に削減し、増税によって予算を均衡化することが必要であった。
また、外国市場でのルーブル貨の地位を改善し、ロシアからの金の流出を防ぎ、金の流入を保証するために、輸入を制限し、輸出を促進することも必要なことであった。
しかし、財務大臣M.レイテルン Михаил Христофорович Рейтерн, 1820-1890 (財務大臣在任:1862-1878) は別の計画を選んだ。
外国からの借款によって、国立銀行の兌換準備金は、国庫紙幣 (国家信用券) の1862年の流通高の約25%にまで増大した。
これにより正貨支払いを再開したが、この無益な企図を行った結果として、兌換準備金は激減し、1963年11月にはロシアは再び不換紙幣国となった。
国庫は再び多額の準備金を集積すべく着手したが、1877〜78年のトルコ戦争の結果、1877年初めに6億6690万ルーブルであった国庫紙幣 (国家信用券) の流通高は、1878年の終りには11億5000万ルーブルにまで膨張した。
そのため、1876年には金価格で81.5コペイカであった国庫紙幣 (国家信用券) は63.2コペイカに低下した (1878年4月にはロンドン市場で22〜25ペンス、 平価を42.3%も割り込む相場を示した)。
新任の財務大臣N.ブンゲ Николай Христианович Бунге (1881‐87) は、打歩をもって金属貨幣による取引および金属貨幣の流通をさえも法律上正当なる物として認めるとの提案を行った。
彼も前任者と同様に、こうすることが貿易および産業の促進に役立ち、外国資本を吸引して、過剰紙幣に対する需要を喚起することになるだろうと信じていたのである。
しかし、帝国議会は彼の意見の立法化を拒否した。
レイテルンやブンゲは、ルーブル紙幣の為替相場を平価にまで立て直すことが必要である、と考えたのであるが、ブンゲの後任者である I.ヴィシネグラツキー Иван Алексеевич Вышнеградский, 1831-1895 は、このような処置は、輸入の増大と輸出の減少を導くものだと考えた。
これを回避すべく、彼はルーブル貨の平価切下を提案したが、彼の提案に関連した実行手段は何ら採られなかった。
その間、金は依然として集積されていた。
1892年に財務大臣に任命されたS.Yu.ヴィッテ Сергей Юльевич Витте, 1849-1915 は、各種の処置を講じて、彼の前任者達が何らの努力をも払わなかった仕事であったロシア通貨の再組織化の仕事を完成したのである。
彼は直ちに、銀貨の自由造幣の廃止を実現することにより、紙幣の地位にとり代らんとする惧れのあった危険を、銀から取り除くための処置をとった。(1893年7月16日勅令)
ルーブル紙幣に対する攻撃を防遏するために、すべての金の先物取引は禁止させた。
さらに、ヴィッテは各種の金融機関の外国為替を弁理する権限を持つことになった。
この処置は、パリおよびベルリン市場でルーブル貨の空売りを行う者に対する防戦的処置の成功と相俟って、ルーブル貨の変動を可成に減少させたのである。ルーブル紙幣は金価格で66.75コペイカで安定し始めた。すなわち、1金ルーブルは1.5紙幣ルーブルと等価交換された。
次いで、1895年〜1897年の間に通過した各種の法律によって、ヴィッテはいわゆる1897年幣制改革を実施したのである。
幣制改革に先立って、1885年5月8日に、合法的取引はすべて金貨をもって評価されるべきこと、ならびにそれによって生じた支払いは、当時の為替相場をもって、金または国家信用券で行われるべきことが命じられた。
同年5月24日に、国立銀行は一定相場によって金の売買を行うことが認可された。
貨幣単位は3分の1に引下げられ(1897年1月3日の法律)、正貨支払が復活された。
従来、兌換券の発行権を持たなかった国立銀行に、1897年8月29日に発行権が付与された。
兌換券発行量は、法規に基づき、流通の必要によって厳重に制限され、発行高が6億ルーブルを超えない場合は、その半額まで金によってカバーされるべきものとし、この金額以上の信用券は、全額すべて金によってカバーされるべきものとされた。
金本位制の実施によって、ロシアが単一の銀本位のもとにあっ際に編制された貨幣条例の改定は、必須のことであった。
この改定は、1899年6月7日の法令によって命じられた。
図版:「Hannu Paastela "Czarist Russian Paper Money 1769―1917" 1980」、
「V.I.Petrov " Catalogue des monnaies russes" 1899 (リプリント版 1964)」、ほか
1897年のヴィッテによる幣制改革については、次へ進まれたい。
è(ロシア革命の貨幣史/序)ロシアにおける金本位通貨制度の実施
帝政ロシアの銀行については、次を参照されたい。
è
帝政ロシアの銀行制度
はじめに /
ピョートル大帝の幣制改革 /
18世紀の貨幣流通 /
19世紀の貨幣流通 /
帝政ロシアの紙幣 /
ドストエフスキーの世界
ロシア革命の貨幣史