ロシア革命の貨幣史

 

 

ЕДИНЕНΙЕ ― СИЛА

 

団結は力なり ― 消費組合の代用貨幣
(1922年、ウラル)

 

 
1922年、「ニコロ・パヴダ勤労者消費組合」 の銘のある黄銅製の代用貨幣が、数種類の額面で発行された。 この時期のロシアは、戦時共産主義から新経済政策 (ネップ) への転換期で、さまざまな種類の紙幣の発行が途切れることなく行われており、各地の都市や、各種の協同組合、工場などでも、独自に (私的に) 紙幣の代用物として証票類を発行していた。 それらの雑多な 「色付き紙」 が氾濫する中で、時折りわずかながら金属製の代用貨幣が閃光のように姿を見せていた。 ニコロ・パヴダ勤労者消費組合の黄銅製代用貨幣も、その閃光のひとつである。

 


 

ニコロ・パヴダ (またはニコラエ・パヴダ) は、現在ではパヴダ (中部ウラルのスヴェルドロフスク州ノヴォリャーリャ地区) と呼ばれており、林業に従事する住民 1,000人ほどの寒村で、オビ河流域のリャーリャ川とパヴダ川の合流地点近く、ニジニ・タギル〜セロフ間を走る鉄道のリャーリャ駅から北西 110 km の位置にある。 かっては、バビノフスカヤ街道沿いの荷馬車 (冬は荷橇) の宿場町で、西のヨーロッパ・ロシアからはウラル山脈を越えて穀物が、そして西へは川魚と軽泥石灰が運ばれていたという。

このニコロ・パヴダという地名は、18世紀に建立されたニコライ・チュドトヴォレツ教会 Церковь Николая Чудотворца に由来する。 この教会は石造りの丸屋根が1つであったが、1914年には2つ目の丸屋根と副祭壇が増築された。 しかし、ロシア革命後の1920年代になると礼拝が禁止され、40年代には取り壊された。

この地方は、金や白金などの貴金属、銅、孔雀石などの鉱物資源に恵まれ、ロシア革命以前には近郊の銅山で採れる銅鉱石を精錬していたニコラエ・パヴダ製銅工場 Николае-Павдинский медеплавильный завод (創業1757年) があった。 しかし、当地での金の採掘のピークは 1915〜17年であったといわれている。

 


 

ニコロ・パヴダの代用貨幣 (1ルーブル貨幣) ニコロ・パヴダの代用貨幣には、5、10、(15、) 20、50コペイカ、1、3、5、10ルーブルの額面のものがあるが、これらの形状は、さまざまである。 額面がコペイカで表わされたものは直径 28 mm の円形、1ルーブルは直径 28 mm の六角形、5ルーブルは 31 × 25 mm の楕円形、3および10ルーブルは 30 × 24 mm の角を落とした四角形で、 それぞれの代用貨幣の 表面側 には、中央部に額面額、その周囲に 「ヴォロビヨフ相続人領地ニコロ・パヴダの勤労者消費組合 (О‐во П‐ЛЕИ СЛ. и РАБ. НИК. ПАВДИНСКАГО ИМ. Нвъ ВОРОБЬЕВА)」 の銘、 裏面側 には、2本の月桂樹の枝と 「団結は力なり (ЕДИНЕНΙЕ ― СИЛА)」 の標語で囲まれた中に、 握手をしている2つの手 と 「信用証票 (КРЕДИТНАЯ МАРКА)」 の銘が配置されている。 そして、裏面側には (高額の5および 10ルーブル貨を除いて)、さらに 「НПО 22」 の刻印 (ニコロ・パヴダ組合 1922年の略) が打たれている。

刻印の 「НПО」 の部分については、ニコロ・パヴダ組合 (Николо-Павдинское общество) の略であるとする説以外に、「人民消費組合 (Народное потребительское общество)」 の略であるとする説もある。

è  消費組合の代用貨幣 [画 像]

 


 

1914年に始まった第一次大戦はロシアの経済全般を崩壊に導き、貨幣制度の実質的な存続に止めを刺した。 開戦まもなく金貨は貨幣流通市場から跡形もなく姿を消し、投機の対象となった。 さらに銀含有量の多い高額面銀貨がそれに続いた。 1915年からは低額面の補助貨幣も徐々に紙幣に駆逐され、小額面の銅貨さえ、紙幣や郵便切手小票にとって代わられた。 流通市場での通貨不足のため、各地の工場や協同組合、商店、レストランなどでは、独自に自家製の貨幣代用物を発行するようになり、それらの使用領域は近隣住民の間にも拡大した。

このような状況の中、1915〜16年にペルミ県 (1928年ごろまでの行政区画) の許可のもとに、ニコロ・パヴダ勤労者消費組合は、5コペイカから1ルーブルまでの額面で、金属製の代用貨幣を発行することになった。 通貨危機がより広汎な範囲に及ぶと、消費組合の理事会は、さらに追加の額面3、5および10ルーブルを無許可で発行しようとした。  このような消費組合の「専断」 を察知した官憲は、以前に許可されていた額面の代用貨幣を含めて、全ての発行停止を命令した。 これらの代用貨幣は、没収され当局へ引き渡された。

 


 

[解説] ロシアの消費組合

ところで、ロシアで最初の協同組合は、シベリアに流されたデカブリストたちによって 1831年に組織された消費組合であるといわれている。 この消費組合は、成文化された定款と、選挙による統治・管理機構を持ち、組合員の要求を満たすためのさまざまな経済活動を展開していた。 しかし、近代的な協同組合が発展しはじめるのは、都市工業がある程度の成熟を見る 19世紀末以降になる。 ことに、1905年の第一次革命によって専制がいくぶん緩和されるようになってから、協同組合運動は大きく進展した。

ロシアの協同組合組織は、1916年には信用組合1万5千、消費組合約1万5千、農業協同組合5千、酪農組合3千を数えるに至った。

当時、ロシアの労働者は安い賃金で過度に働かされ、飢餓的な困窮生活を強いられていた。 労働者がその窮状を打開するには、2つの途があった。 1つは賃金を増やし、あるいは過酷な賃金制度を撤廃することであり、他の1つは、生活水準を引き下げることなく、得た賃金の支出を節約することである。 1つ目は労働組合および労働者生産組合の途であり、他の1つは消費組合 (消費者協同組合) の途であった。 かくして、労働者の間に、労働組合とともに、協同組合が広く組織されることになった。

 


 

[解説] ロシアにおける貨幣制度の崩壊と再建

すでに1916年には、帝政政府によって穀物取引制限が行われ、農産物の公定価格による強制買付が施行されていたが、二月革命後の1917年3月25日に臨時政府はさらに穀物取引の国家独占を宣言し、農村外での一切の私的な穀物取引を禁止した。 十月革命後の1918年5月に勃発したチェコスロヴァキア軍の反乱は、列強の干渉と全面的内戦の引き金となった。 そして、この年の夏には、30以上の政権がロシア全土に誕生し、国土の大半はソヴェト政府の権威の外にあった。 ソヴェト政府は、反革命勢力との軍事対決や列強の干渉と経済封鎖など、内外の危険からロシアを防衛するため、あらゆる力を振り向けることを余儀なくされた。 この政治的・軍事的激動の時期、1918年中頃から 1921年の春までの間に採られた戦時非常政策は、戦時共産主義と呼ばれている。

1918年11月29日には私的商取引が廃止され、生活必需品の配給制が実施されて、労働者の賃金の多くは現物で支払われるようになった。

実際には、統制外の私的市場 (闇市場) は存続していた。 絶対的な品不足の中で、国家による供給が不十分であったため、ほとんどの労働者は私的市場で必要な商品を獲得しなければならなかった。

革命の当初には、消費組合以外の各種の協同組合は、個人主義的なもの、私有財産制度の残滓 (残りかす) であるとして、抑圧された。 また、消費組合は物資配給の機関として利用され、その活動は自主性を失なった。

1919年1月11日に農民に対して、「余剰」 農産物の強制的な割当供出 (徴発) を課する食糧徴発制度が実施された。 1920年10月11日からは郵便、電信、水道、ガス、電気、住居などの公共サービスや交通機関が無料となった。 このような経済関係の現物化の全過程は、1920年の終りにその頂点に達し、貨幣は事実上その機能を失った。

 


 

1920年の末、3年におよんだ内戦はようやく終結した。

列強の軍事干渉や反革命との闘争は、はかりしれない努力と犠牲を払って、結局はソヴェト政権が勝利したが、この3年間の戦乱のため国土は荒廃し、国民経済はまさに崩壊寸前であった。 食糧徴発は農民から生産意欲を奪い、そのため播種面積は減少し、穀物収穫量は激減していた。 また、燃料や原材料の不足は、多くの国営企業を閉鎖に追い込み、工業生産は急激に低下していたが、なによりも食糧不足がすべての産業の足を引っぱっていた。 このような国民経済全体におよぶ生産の著しい減少と、クロンシュタットの暴動 (1921年2月28日) などにあらわれた国民の不満によって、ソヴェト政府は戦時共産主義の政策を大転換することを迫られた。

1921年3月10日に第10回党大会で余剰農産物の徴発制度の廃止が採決され、3月21日には食糧や原料の徴発を物納税によって取代えることに関する農業税法が公布されて、新経済政策 (ネップ) が開始された。 それに伴い、各種の協同組合は社会主義的計画経済を運営統制するうえで必要なものとして次第に認められるようになり、消費組合は自主性を若干回復することになった。

農業税法の第8条では、次のように規定されていた。
「租税納入後、農民の手もとに残る食糧、原料および飼料のすべての貯蔵は、農民の完全な処分に属し、農民はこれを、自己の経営の改善と強化、個人的消費の向上、工場工業や農民的小工業および農業生産物との交換のために利用することができる。
交換は、協同組合を通じて、および諸市場で地方的経営取引の限界内で容認される。」

1921年4月7日の法令で、協同組合は独自の商業組織として再編成され、あらゆる財貨を自由に売買する権限を与えられた。 9月1日には、協同組合は財政的に国家機構から独立した。 10月20日には、さきに国有化されたときの協同組合の旧資産は協同組合に返還され、協同組合によって実際に使用されていた資産は、すべて協同組合の私有財産として与えられた。

戦時共産主義から新経済政策への転換は、現物経済から貨幣経済へ復帰することであった。 労働者の賃金は再び現金で支払われるようになった。 1921年の7月から8月には、公共便益は再び有料となり、食糧品の配給も11月10日に廃止された。 安定通貨の必要性が強く叫ばれた。 1922年9月28日には、革命前発行のすべての紙幣、臨時政府および戦時共産主義の時代に発行されたすべての紙幣が、引換期限10月をもって、流通市場から回収されることになった。 1922年10月11日、人民委員会議布告によって、ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国国立銀行 (1921年10月12日に設立) に銀行券の発行権が与えられ、金で表示された銀行券 「チェルヴォネツ紙幣」 の発行が11月末から開始された。

ソヴェト紙幣はなお基本的な通貨であった。 ソヴェト紙幣の発行は、チェルヴォネツの発行と並行して行われた。 国庫の膨大な赤字を解消できずにいた政府にとっては、チェルヴォネツ紙幣が発行されるようになったからといって、ソヴェト紙幣の発行を停止することはできなかった。 また、チェルヴォネツの流通はまだ限られており、補助貨幣もなかったので、国民はソヴェト紙幣を利用するほかなかった。 この時期の通貨は価値の安定したチェルヴォネツ (国立銀行券) と、絶えず減価を続ける不安定なソヴェト紙幣 (国庫紙幣) の二元的通貨制度であった。 しかし、それは、単にチェルヴォネツ紙幣とソヴェト紙幣の2系統の紙幣が併存していたということではない。 この2つの通貨の間には強制的な交換比率がなく、それぞれ独自の相場を持っていたこと、流通市場の2つの領域に分業、補完関係、支払いの任意性に基づく競合関係が存在したということである。

 


 

ソヴェト政権による新経済政策 (ネップ) のもと、チェルヴォネツは着々と流通市場に浸透してきた。 しかし、チェルヴォネツの単位は、日常の支払いには高額であった。 流通市場は、安定した小額面通貨を執拗に求めており、補助貨幣の不足は深刻であった。 その結果、特に地方では、計算証票や支払請求券などの貨幣代用物が発行されるようになった。

このような時期に、没収されていた金属製の代用貨幣が、ニコロ・パヴダ組合に返還された。 そして、5コペイカから3ルーブルまでの額面の代用貨幣の上に 「НПО 22」 の刻印が打たれて、1922年に発行された。

ニコロ・パヴダの代用貨幣は、ソヴェト連邦の正規の金属製補助貨幣が発行される 1924年まで使用された。

ロシア連邦共和国様式の銀貨の製造は 1921年8月より行われていたが、これらの銀貨は 1924年まで国庫に備蓄されており、ソヴェト連邦様式の補助貨幣と同時期に発行された。

1924年2月29日、「無記名式支払命令書、無記名式商品預り証」 のような貨幣代用物発行禁止に関する労働国防会議決定が公布された。 そして、党中央委員会は 「貨幣制度改革実施に伴う財政・経済諸方策に関する」 課題を決定し、地方の党組織およびソヴェト組織に対して 「一切の貨幣代用物の発行禁止を無条件に履行すること、および如何なる形態にせよ、かかる禁止令の脱法行為を許容せざること」 (第10条) を要求した。

 

[参考文献]

 


はじめに / 序.ロシアにおける金本位通貨制度の実施 /
1. 帝政ロシア末期の貨幣流通 / 2. 第一次大戦下の通貨事情 /
3. 臨時政府の通貨発行 / 4. 十月革命とソヴェト政府の通貨政策 /
5. 国内戦争と戦時共産主義の時代 / 6. 新経済政策と通貨制度の再建 /
全国的通貨 / 地域通貨

アルマヴィル貨幣の歴史的考察 / 非貨幣交換のための貨幣代用物 /
団結は力なり ― 消費組合の代用貨幣 /

ロシア革命史 (年表)