ロシア革命の貨幣史 (シベリア異聞)

 

 

シベリアの通貨事情

 

1918年5月25日、ソヴェト権力に対して武力蜂起した チェコスロヴァキア軍団 は、シベリア鉄道に沿って、ウラルやシベリアの諸都市を短期間のうちに占拠し、それに呼応した反革命勢力が各地で反革命政権を樹立した。

ノヴォニコラエフスクでは、5月26日にチェコスロヴァキア軍部隊によって占領されると、社会革命党 (エスエル) 系の旧 (第一次の) 「臨時シベリア政府 Временное Сибирское правительство」 のシベリア残留派が 「西シベリア代表部 Западносибирский Комиссариат」 を組織したが、この西シベリア代表部は6月7日にオムスクへ移った。

旧 「臨時シベリア政府」 は、社会革命党 (エスエル) 右派の P.Ya.デルベル Пётр Яковлевич Дербер, 1888-1929 を首班として、1918年1月27日 (現行暦2月9日) にトムスクで設立されたが、その地の労働者兵士代表ソヴェトの臨時軍事革命委員会によって解散させられ、デルベルをはじめとする組織のメンバーの大部分は、逮捕を恐れて、3月には満洲のハルビンへ逃亡した。 デルベルの一派は、5月の中ごろヴラヂヴォストクへ移り、ヴラヂヴォストクが6月29日にチェコスロヴァキア軍団によって占領されると直ちに 「自治シベリア臨時政府 Временное правительство автономной Сибири」 の樹立を宣言する。

トムスクでは、6月23日に社会革命党、メンシェヴィキ、シベリア独立党 Сибирские областники などの反革命勢力が 「シベリア地方議会 Сибирская областная дума」 を開催し、新たに (第二次の) 「臨時シベリア政府」 を設立した (政府首班は第二回帝国議会代議員であったP.V.ヴォロゴツキー Пётр Васильевич Вологодский, 1863-1928)。 このヴォロゴツキーの臨時シベリア政府もオムスクへ移り、先にノヴォニコラエフスクからへ移っていた西シベリア代表部と合同して、6月30日に新しい政府を組織した。

è  《解 説》 シベリア争乱、1918−1920年

 

臨時シベリア政府の通貨発行

1918年の夏、臨時シベリア政府は、紙幣の欠乏に伴う財政的困難を味わうことになり、秋には危機的状況になった。 臨時シベリア政府はこの通貨飢饉を解消するための方策として、独自の紙幣を発行することを余儀なくされた。

当時、ロシア国内では 帝制時代の ロマノフ紙幣ケレンスキー政権が発行した紙幣、債券や自由公債 (通貨不足を補うものとして、貨幣として流通した) など、雑多な紙幣がそれぞれの相場をもって、同時に混在して流通していたが、列強の軍事干渉やボリシェヴィキと反革命勢力との対立が激化すると、ロシア中央部との正常な連絡を阻害された地域では、中央からの通貨の供給が滞り、深刻な通貨飢饉に陥ってた。

シベリアや極東地方においても通貨不足は経済生活に重大な影響を及ぼしはじめ、殊に中央から補充の全くない額面1〜10ルーブルの小額面紙幣の不足に苦しんでいた。 そのため、レストランやカフェー、商店などでは、代用通貨とも呼べないようなものまで勝手に作って使っていた。 小額面の紙幣は隠匿され、投機の対象になっていた。 例えば、額面20ルーブルのケレンスキー紙幣を両替しようとすると、両替所では2ルーブルもの 「手数料」 を取るありさまであった。

ハバロフスクやブラゴヴェシチェンスクでは、クラスノシチョコフやムーヒンらの 過激派が発行した紙幣 が大量に出回っており、これらはザバイカル州以東に3,500万〜3,600万ルーブル存在していたといわれている。 その通貨としての効力については白衛政権のもとで問題があるが、小額面補助通貨の不足が深刻なことでもあり、白衛政権が各種の取引で自然と使用されているムーヒン紙幣などの過激派の紙幣の流用を黙認することはやむをえない処置であった。

è  西伯利経済現況 (1918 (大正7).10.29 「大阪毎日新聞」)

è  財界西比利 ― 通貨・銀行・物価  (1918 (大正7).10.30-11.1 「中外商業新報」)

 

5%短期シベリア国庫債券

臨時シベリア政府は、1918年10月1日に 「額面500、1000および5000ルーブルの5%短期シベリア国庫債券の発行について」 の法令を発布した。 さらに10月5日には、これらの債券は額面価格で紙幣として流通し、国庫ならびに個人間の支弁に受納されなければならない旨が布告された。

5,000ルーブル債券 (305 × 123 mm)

5,000ルーブル債券
5 % краткосрочные обязательства Государственного Казначейства Сибири,
купюрами в 500 р., 1.000 р. и 5.000 р.

 

5%短期シベリア国庫債券は透かし模様の用紙の片面のみに印刷されている。 債券の様式は帝政時代に発行された 帝政様式の5%短期国庫債券 を踏襲しており、債券左側の唐草模様の中の紋章がケレンスキー政府の双頭の鷲 (ケレンスキーの鷲) に変わったことを別にすれば、ほとんど同じである。 また、後述の全ロシア臨時政府のもとで発行される 「5%短期国庫債券」 との見かけ上の違いは、発行および償還期限の日付表記と、債券の銘に 「シベリア」 の字句が入っていることだけである。

さらに臨時シベリア政府は、5%短期シベリア国庫債券 (短期国庫債券) の両替のための補助紙幣として、額面1、5および10ルーブルで国庫紙幣を発行した。

 

臨時シベリア政府国庫紙幣

1ルーブル紙幣 (1918年) (121 × 75 mm)

1ルーブル紙幣   1ルーブル紙幣

5ルーブル紙幣 (1918年) (121 × 75 mm)

5ルーブル紙幣   5ルーブル紙幣

10ルーブル紙幣 (1918年) (122 × 76 mm)

10ルーブル紙幣   10ルーブル紙幣
Казначейские знаки, купюрами в 1 р., 5 р. и 10 р.

 

国庫紙幣は、最初は5ルーブルの額面で発行され、それに続いて、他の2つの額面で発行されたものと考えられる。

「国立銀行イルクーツク支店は、1918年9月19日の政府の行政評議会の決定に基づいて、額面5ルーブルの臨時シベリア政府国庫紙幣を国立銀行が発行したことを通告する。」 (1918年11月15日、「自由な地方」 紙、イルクーツク)

Оборотная сторона знаков 
украшена гербом Сибири - 
двумя соболями со 
стрелами.

これらの国庫紙幣には 「シベリア臨時政府国庫紙幣」 の銘が記されており、ケレンスキー政府の双頭の鷲 (ケレンスキーの鷲) が左右に描かれている。 1ルーブル以外の2つの額面の紙幣では、双頭の鷲の紋章は月桂樹の花輪に囲まれた盾の上に小さく置かれ、盾の左右に栄誉のリボンを巻きつけたトーチ(タイマツ)が配置されている。 紙幣の裏面はシベリアの紋章 (向き合った2匹のクロテンと交叉した2本の矢) で飾られ、額面額が透かしでなく印刷されている。

臨時シベリア政府が発行した5%短期シベリア国庫債券や国庫紙幣は 「シベリア紙幣 Сибирские денежные знаки 」 と呼称された。

 


 

コルチャーク政府 (全ロシア臨時政府)

1918年9月、各地に乱立していた反ソヴェトの諸政府を統一するための会議がウファで開かれ、9月23日に 「全ロシア臨時政府 Временное Всероссийское правительство 」 が成立し、10月9日にオムスクに移った。 当時、全ロシア臨時政府では、第二回帝国議会代議員で臨時シベリア政府の首相であったP.V.ヴォロゴツキー (Пётр Васильевич Вологодский, 1863-1928) を中心にした、5人の執政官による合議制が採用されていたが、この中にはソヴェト政府に同調する社会主義者もいた。

1918年11月、全ロシア臨時政府の内部では大きな変革が起こった。 イギリスとフランスの軍人仲間の支持によって、11月4日に全ロシア臨時政府の陸海軍相に指名された元黒海艦隊司令官 A.V.コルチャーク 提督が、その13日後にクーデターを実行して、最高執政官兼ロシア陸海軍最高司令官になり、軍事独裁政権を樹立した。

コルチャーク政府 (全ロシア臨時政府) のもとでは、臨時シベリア政府によって発行された紙幣が引き続き流通しており、額面500、1000および5000ルーブルの様々な期限の5%短期債券の発行が続けられた。 それと共に、この債券の名称から 「シベリア」 の字句が除かれた5%短期債券が新たに発行され、そのほか、100ルーブルの債券も流通させた。

 

5%短期国庫債券

500ルーブル債券 (215 × 86 mm)

500ルーブル債券

1,000ルーブル債券 (235 × 92 mm)

1,000ルーブル債券

5,000ルーブル債券 (318 × 120 mm)

5,000ルーブル債券
5% краткосрочные обязательства Государственного Казначейства,
купюрами в 100 р., 500 р., 1.000 р. и 5.000 р.

 

「5%短期国庫債券」 のほか、全ロシア臨時政府は 「短期国庫債券」(名称から 「5%」 が除かれている) を発行した。 これらは25〜250ルーブルの額面で発行された。 外形上および本質的には、双方の債券による貨幣の機能の実行には基本的な差異はなかった。 「5%」 が除かれている短期債券は、1919年1月に印刷が始められた。

 

25ルーブル債券 (145 × 59 mm)

25ルーブル債券

50ルーブル債券 (143 × 60 mm)

50ルーブル債券
Краткосрочные обязательства Государственного Казначейства,
купюрами в 25 р., 50 р., 100 р. и 250 р.

 

全ロシア臨時政府は1918年10月1日から1919年12月16日までの間に総額125億ルーブルの債券を発行したといわれている。

この 「短期国庫債券」 は偽造が容易であったため、シベリアおよび域外でおびただしい数の偽造紙幣の印刷所が出現し、大量の偽札を広汎に拡散させた。 全ロシア臨時政府が発行した5%短期国庫債券や短期国庫債券も、シベリア臨時政府が発行した紙幣と同様、 「シベリア紙幣」 と呼称された。

 

全ロシア臨時政府国庫紙幣

コルチャークの統治の時期、債券のほかに、額面1、5および10ルーブルで発行された国庫紙幣に追加して、額面3および300ルーブルの国庫紙幣も発行された。

3ルーブル紙幣 (1919年) (120 × 74 mm)

3ルーブル紙幣   3ルーブル紙幣


300ルーブル紙幣 (1918年) (123 × 76 mm)

300ルーブル紙幣   300ルーブル紙幣
Казначейские знаки, купюрами в 3 р. и 300 р.

 

Государственный герб, 
использовавшийся при 
А. В. Колчаке

以前の紙幣では、皇帝の象徴の無い双頭の鷲 (ケレンスキーの鷲) が描かれているのに対して、新たに発行された紙幣では王者の権標である王笏と共に描かれた。 鷲の頭上には 「ゲオルギーの十字架」 と 「汝はこれによりて勝つ (Сим победиши)」の銘が置かれ、鷲の胸部には 「ゲオルギー・ボベドノセッツ (勝利を齎す者ゲオルギー)」 が描かれている。 この新しく発行された紙幣は、紙幣上の銘は従来の紙幣と同様 「シベリア臨時政府国庫紙幣」 と表記されているが、「全ロシア紙幣 Всероссийские денежные знаки 」 と呼ばれた。

 


 

「円」 のシベリア出征

1918年 (大正7年) 8月2日、日本政府は シベリア出兵 を宣言した。 出兵宣言に先立つ同年7月19日に、大蔵大臣は派兵にあたっての 軍用手票 (軍票) 発行案を閣議に提出しており、8月7日に閣議提出の 「西比利亞及北滿洲出征部隊軍資金支辨順序」 が決定された。

「今回時局進展ノ結果、我國ガ西比利亞及北滿洲ニ出兵ノ必要ヲ見ル場合ニ於テ、北滿洲ニ於ケル軍費ノ仕拂ニ就テハ可成朝鮮銀行券ヲ使用セシムル方針ナルモ、朝鮮銀行券ノ通用充分ナラザル場合又ハ其ノ製造準備不足ノ為メ、時局ノ急需ニ應ズル事能ハザル場合、及西比利亞ニ於ケル仕拂ニ充ツル為メ、前例ニ依リ軍用手票ヲ發行セシメントス。」

すなわち、シベリア派遣軍の現地での軍費支払には 「朝鮮銀行券または軍用手票を使用する」 というものであった。 そして、シベリア派遣軍の軍費支払その他一切の財務処理を 朝鮮銀行 が日本政府より委託されていた。

軍用手票 (軍票) とは、軍費支弁や占領地経営などの便益、日本の通貨制度および財政の利便のために発行される特殊政府紙幣で、日本通貨の代用として、戦地や占領地で軍が必要とする物資や労力を調達する場合や、軍人・軍属の俸給・給与の支払いに用いられた。 シベリア出兵にともなう軍票は、金兌換とされ、10円、5円、1円、5銭、20銭、10銭の6種類の額面で発行され、10銭未満の端数の支払には現地通貨を用いるものとされた (1銭=5コペイカ銅貨、2厘=1コペイカ銅貨)。 軍票の交換には主として朝鮮銀行券が充てられ、金貨兌換は必要止むを得ない場合に限るものとされた。

金本位制のもとでの法定相場では100円が96ルーブル90コペイカであったが、ルーブル紙幣の価値は下落して、1918年秋頃には、軍票 (円貨) 100円は500ルーブル前後で通用していた。 その後もルーブル紙幣は暴落し続け、翌1919年になると、ルーブル紙幣が全く信用のない情勢であったことに対して、当初は必ずしも現地住民に好感をもって受け入れられなかった日本の軍票や朝鮮銀行券であったが、日々その信用が高まり、流通市場において全く支障なく、円滑に授受されるようになってきた。

朝鮮銀行 は、「朝鮮銀行法」(日本法 ) に基づく特殊銀行として、日本政府の保護を受けて、金貨または日本銀行券との兌換が保証されている朝鮮銀行券を発行した。 朝鮮銀行は日本統治下の朝鮮における中央発券銀行であったが、日本の国策に応じて、満洲、シベリア、華北などに数多くの店舗を設け、「円」 通貨圏拡張のため広範囲に帝国主義的金融活動を行った。

è  西伯利経済現況 (1918 (大正7).10.29 「大阪毎日新聞」)

 

è  通貨干渉戦争始末 (シベリア出兵と朝鮮銀行券)

 


はじめに      コルチャークの通貨改革

 

はじめに / シベリアの通貨事情 / コルチャークの通貨改革 /
極東共和国の緩衝紙幣 / 通貨干渉戦争始末 (シベリア出兵と朝鮮銀行券)

《トピック》 アムール河の波 / ロシア革命の貨幣史


《解 説》 1918−22年、シベリアの社会・政治情勢 
シベリア争乱、1918−1920年 / チェコスロヴァキア軍団事件 / シベリア出兵 / 極東共和国