ロシア革命の貨幣史 (シベリア異聞)

 

 

極東共和国の緩衝紙幣

 

極東共和国地図 1920年春、敗走するコルチャーク軍を追撃してきた赤軍と極東地方に駐屯する日本のシベリア派遣軍 (浦塩派遣軍) との直接的な軍事衝突を避けるため、バイカル湖以東に緩衝国家 ― 極東共和国 (1920年4月6日〜1922年11月15日) が創建された。
本稿では、極東共和国における通貨事情を、当時日本で報道された新聞掲載記事に基づいて概観する。

極東共和国の成立経緯については、次を参照されたい。

è  [解説] 極東共和国の成立の経緯

また、極東共和国成立以前に、ヴェルフネウヂンスクやヴラヂヴォストクで発行された緩衝紙幣については、次を参照されたい。

è  緩衝紙幣 (極東共和国以前)

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極東共和国が設立される以前のシベリアおよび極東地方では、A.V.コルチャーク のオムスク政府が発行した シベリア紙幣 (オムスク紙幣) が広く流通していた。

Герб Дальневосточной республики (ДВР) 1920年3月上旬にヴェルフネウヂンスクで 「沿バイカル臨時政府 (臨時ヴェルフネウヂンスク政府)」(首班は A.M.クラスノシチョコフ) が成立した。 そして、3月28日〜4月8日に勤労者パルチザン・ザバイカル地方制憲大会が開催されて、4月6日に極東共和国の成立を宣言する布告が採択された。 そこでは、「極東 (後貝加爾、黒竜、沿海、薩哈嗹、勘察加地方及東支鉄道租借地帯ヲ含ム) ヲ独立共和国ト宣言」 されていたが、このとき共和国の実効支配の及んでいた領域は、首都のヴェルフネウヂンスクを中心とした沿バイカル地方 (ザバイカル州の西部地域) のみであった。


 

各地の紙幣発行状況

極東共和国地図

 

  ヴェルフネウヂンスク

 

1920年7月27日、ヴェルフネウヂンスクの極東共和国臨時政府は、「極東共和国の国体である新しい共和制に、外見上相応しい紙幣を以って、共和国内に流通している各種様式紙幣と交代するため」 の新紙幣の発行についての法令を採択した。

"в целях замены обращающихся в республике денежных знаков различных образцов знаками, соответствующими по своему внешнему виду новым республиканским формам государственного строя Дальневосточной республики"

これに基づいて、3、10および1000ルーブルの額面で信用券が発行され、続いて、額面1および5ルーブルの信用券が発行された。 さらに、その後の急激なインフレーションのため、比較的高額面の500ルーブルの信用券の発行が追加された。 これらの紙幣の印刷は、イルクーツク国家文書印刷所で行われた。

è  極東共和国信用券

この年の10月までに、ヴェルフネウヂンスクで額面総額19億689万1,200ルーブルの信用券が発行された。

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極東共和国臨時政府は、極東共和国とロシア社会主義連邦ソヴェト共和国の間で、極東共和国信用券とソヴェト紙幣を共通に流通させる目的で、1920年10月10日に2つの紙幣の両替および交換額の制限に関する命令を発した。 さらに、10月15日付で、極東共和国内の貴金属、および帝政時代に発行された金貨や銀貨の全てを国有とし、それらを所有する者は、発令後1か月以内に、これを政府に納入すべきことを命令した。 すなわち、個人で所有する貴金属や金貨・銀貨を取り上げて、紙幣のみを流通させることにしたのである。

è  露国の金銀国有案 (1920 (大正9).10.23 「大阪朝日新聞」)

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極東共和国地図

 

  チタ

 

1920年10月15日に、日本軍がザバイカル州から撤退すると、10月22日に極東共和国の人民革命軍とパルチザン部隊はチタに残留していたセミョーノフ軍を駆逐し、その地に極東共和国の首都が移された。 11月に開催された極東諸州代表者会議は A.M.クラスノシチョコフ を首班とした極東共和国政府を選び、極東諸州の実質的な極東共和国への統合が達成された。 極東共和国政府は紙幣発行強化の更なる迅速化についての決議を行い、そのため、イルクーツク国家文書印刷所は内閣印刷局に改造され、共和国中の印刷設備と熟練工によって増強された。 紙幣の新たな発行は、主に額面1000ルーブルと500ルーブルの信用券で行われた。

チタでは、額面総額20億5,066万6,600ルーブルの信用券が発行された。 これによって、ヴェルフネウヂンスクとチタを合わせて、額面総額39億5,755万7,800ルーブルの信用券が発行されたことになる。

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極東共和国地図

 

  ブラゴヴェシチェンスク

 

インフレーションのために極東共和国信用券は急速に減価した。 主に額面500および1000ルーブルの信用券が1920年末まで発行されたが、小額の支払いのための補助紙幣が不足した。 そのため、アムール州では共和国政府の同意のもとに、以前からあった印刷設備を使って、額面25および50ルーブルの 「極東共和国計算票」 をヴェルフネウヂンスクの発行として印刷・発行した。 額面総額8,941万7,050ルーブルの計算票が発行されたが、急激なインフレーションの結果、すでにこのような低額面の紙幣は、支払手段として必要とされなかった。

è  極東共和国計算票

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極東共和国地図

 

  ヴラヂヴォストク

 

ヴラヂヴォストクでは、1920年1月末に沿海州自治会議長A.S.メドヴェーヂェフ А. С. Медведев の社会革命党 (エスエル) を中心とする政権 「沿海州自治会臨時政府 (日本では 「浦塩臨時政府」 と言い慣わしている)」 が成立した。

この時期、ヴラヂヴォストクでも、ロシア極東の他の地域と同様に、すでに消滅していたオムスク政府の発行によるシベリア紙幣 (オムスク紙幣) が広く流通していたが、その価値は暴落していた。 また、赤軍によって占拠されたイルクーツク以西では、ソヴェト政府と敵対して戦ったコルチャーク 「白衛」 政府によって発行されたシベリア紙幣は何らの賠償も用いずに全て無効とされていた。

è  留貨思惑再燃か ― 財界十方瞰  (1920 (大正9).1.13 「大阪朝日新聞」)

è  オムスク紙幣の処分 ― 労農政府の通貨政策 (1920 (大正9).4.6 「大阪朝日新聞」)

 

沿海州自治会臨時政府は 「労農派と妥協し、「極東政府」 の名の下に各政派を連合し、新たに政府を組織」 することになり、同年6月に諸政派による連立政府 「極東臨時政府 Временное Правительство Дальнего Востока 」 が再編され、ボリシェヴィキの強い影響下に、その首班にはA.S.メドヴェーヂェフが就いた。 極東臨時政府は、1920年6月5日に 「国家信用券の発行および現在流通している代用通貨との引換に関して」 の法令 352 を裁可し、「極東臨時政府の統治する国家の全財産」 と、臨時政府の所管に属する総額7,086万7,000金ルーブル相当の貴金属を担保予備金として、低額補助紙幣 (額面5、10、30、50コペイカ) および国家信用券 (額面1、5、10、25、100ルーブル) を発行し、「シベリア紙幣」 などの旧来の紙幣の流通を停止して、それらの旧紙幣200ルーブル当り1ルーブルの引換相場で無条件に引き換えた。

è  法令 352 「国家信用券の発行および現在流通している代用通貨との引換について」

è  露貨整理法発布 (1920 (大正9).6.10 「大阪朝日新聞」)

ヴラヂヴォストクの極東臨時政府によって発行された低額補助紙幣および国家信用券は、「緩衝紙幣」 と呼ばれる。 これらの緩衝紙幣については、次を参照されたい。

è  極東臨時政府 (沿海州自治会臨時政府) ― ヴラヂヴォストク

 

ヴラヂヴォストクにおける緩衝紙幣の発行は1920年11月初めに停止され、その後、この地方で紙幣の発行は行われていない。

1920年11月末にヴェルフネウヂンスクの極東共和国政府 (首班 A.M.クラスノシチョコフ) がチタへ移ると、ヴラヂヴォストクの国民会議は、チタの政府を承認し、極東臨時政府を解体して沿海州をチタの政府の統轄下に置くことを決め、12月にはヴラヂヴォストクに極東共和国沿海州庁 Приморское областное управление ДВР ができた。


 

極東共和国領域内における紙幣流通に関する法制

1920年10月20日、チタに残っていたセミョーノフ軍部隊を駆逐して極東共和国人民革命軍がチタを開放し、翌23日にチタに国民会議が設立された。 10月28日〜11月10日にチタにおいて、ブラゴヴェシチェンスクのアムール州執行委員会、ヴラヂヴォストクの極東臨時政府 (浦塩臨時政府) など極東諸州の各政府を解消して極東共和国へ統一するための 「極東諸州代表者会議」 が開催され、セレンガ川、バイカル湖から太平洋に至る極東領土における自主独立した共和国 (極東独立共和国) の成立が宣言され、各地政府の解消と極東独立共和国への統一、極東共和国憲法制定会議の招集が決まった。

11月2日、極東3州の統一によって成立することになる極東共和国領域内における紙幣流通に関する暫定的な法令が公布された。 そこでは、極東共和国の領域内では、極東共和国の成立以前に、ヴェルフネウヂンスクやベルフネウヂンスク (アムール州)、ヴラヂヴォストク (沿海州) の暫定的な革命政権が個別に発行した緩衝紙幣や、帝政時代に発行された紙幣、ソヴェト紙幣などが、共和国内全域での流通を認められ、シベリア紙幣や同じく反革命政権であった G.M.セミョーノフ の政府が発行した紙幣など、敵対的な勢力が発行した紙幣は、当然のことながら無効とされた。

è  「極東共和国の領域における信用券および紙幣の流通に関する法律」(1920.11.2)

è  極東共和国通貨 (1920 (大正9).11.27 「大阪朝日新聞」)

そして、11月2日付の暫定的な法令を整備した、極東共和国領域内における紙幣流通に関する11月15日付新法令が公布された (これに伴って、11月2日付法令は失効した)。

è  「極東共和国の領域における信用券および紙幣の流通に関する法律」(1920.11.15)

また、極東共和国では、ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国で未だ戦時共産主義の現物化経済・統制経済下にあった時期に、建前上とはいえ、(許可制ではあったが) 個人や各種組合、公共団体、国家機関などによる商取引や輸出入が認められていた。

è  極東共和国商業規定 (1920 (大正9).9.28 「大阪朝日新聞」)

 

極東共和国領域内における帝政時代の金貨・銀貨・銅貨

1921年の冬、インフレーションは巨大な規模に達した。 極東共和国政府は通貨インフレを停止することと、商品の不法な輸入の支払いとして国外へ持ち出されていた金や毛皮製品の逃避を阻止することを試みた。 この時期、極東共和国では、価値の安定した通貨として (また、投機の対象として)、帝政時代の金属貨幣が 「密かに」 流通し、私的な取引が続いていたので、国庫からの金属貨幣での支払いの停止と、紙幣の額面価格での金属貨幣との等価流通、および金貨、銀貨、銅貨の流通を停止するため、1921年1月24日に 「硬貨の流通停止について」 の法律が採択され、公布された。 そこでは、金属貨幣は専ら共和国の所有物であることが宣言され、金高25ルーブル以上の 「貯え」 は2週間のあいだに国庫への引き渡すこと、指定期日後に見つけ出された 「貯え」 は即座に没収され、その持ち主は投機を行った罪に問われるものとされた。

è  知多新紙幣法 (1921 (大正10).3.22 「大阪毎日新聞」)

 

緩衝紙幣の回収

しかしながら、住民の間で 「極東ルーブル」 と呼ばれていた極東共和国信用券 (緩衝紙幣) は、1921年の年の春には250ルーブルが1金コペイカの価値となり、それでなくとも高価でない支払い価値を実質的に消失した。 そこで、極東共和国政府は、「ロシアの金ルーブル」 を極東共和国の通貨の単位に採用することを決定し、1921年5月16日に法令を発布した。 これによって、極東共和国信用券の発行は中止されることになった。

Правительство ДВР издало закон от 16 мая 1921 года, которым за денежную единицу принят «Российский золотой рубль».

è  「極東共和国における貨幣流通の整理に関する法律」(1921.05.16)

1922年11月15日に極東共和国がロシア社会主義連邦ソヴェト共和国へ併合されたことに伴って、極東共和国の紙幣は公式に流通市場から引き上げられたが、 1921年末には、極東共和国の紙幣の支払手段としての価値は額面1000ルーブルの信用券が1金コペイカ (金買入価格を基にした計算単位) 以下に下落しており、 すでに極東共和国の紙幣は実際上流通市場で使用されていなかった。

 


 

極東共和国の緩衝紙幣が流通市場で使用されなくなった後のヴラヂヴォストク地方では、日本通貨との兌換が保証されていた 朝鮮銀行券 と、 帝政時代に製造された金属貨幣 が主要な通貨となった。

1922年5月当時、極東共和国ではロシア社会主義連邦ソヴェト共和国にならって、国立銀行の金買入価格を基にした 「金ルーブル」 を計算単位として採用していた。

ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国国立銀行は、1921年11月19日より、同行が金貨買入れの場合に支払いの標準となる 「金ルーブル」 の相場および銀ルーブル・金銀地金・外国貨幣の相場を定めることになった。 その後、1922年8月15日付労働国防院の布告に基づいて、市場における外国貨幣および貴金属の取引を調節するための特別相場委員会が設置され、この特別相場委員会に外国貨幣および貴金属の相場および金ルーブルの相場を定めることが委任された。

官庁・国家機関に対する支払いで銀貨または朝鮮銀行券を使用するときは、政府が時々に公定する金ルーブルとの換算相場によって行われた。 金ルーブル対円の換算相場は毎週公定されることになっていたが、ここ暫くは1金ルーブルに対し1円4銭〜1円10銭であった。 一般の私的な商取引では、金貨と朝鮮銀行券は公定相場によることなく流通したが、銀貨は1金ルーブルに対し2ルーブル60コペイカほどの相場で流通した。

è  最近の浦塩経済 (二) (1922 (大正11).5.30 「満州日日新聞」)

1922年中にロシア中央部およびシベリア地方から沿海地方に流入してきた金貨・銀貨の総額は約550万金ルーブルに達しており、これらの硬貨は輸入品代金の決済資金に充当されて、そのほとんどが国外に流出した。

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ロシア (ソヴェト共和国) では、新しい国立銀行券である チェルヴォネツ紙幣 が1922年10月11日に発行された。 このチェルヴォネツ紙幣は、貴金属、および金に対して相場が安定した外貨によって保証されており、1924年の春には流通市場に定着した。 さらに1924年2月から3月にかけて、新しい国庫紙幣の発行、ソヴェト紙幣の印刷の停止、銀貨および銅貨の発行、ソヴェト紙幣の回収などの法令が公布されて、ソヴェト政府による通貨改革はほぼ完了したたが、 極東地方ではその後も暫くの間、革命前に製造された銀貨および銅貨が通貨として流通していた。

1924年4月27日、極東革命委員会は、帝政時代に製造された銀貨および銅貨の公定相場を次のように引き下げ、4月28日より実施することにした。 従来は高額面銀貨 (額面1ルーブル、50コペイカの銀貨) の表記価格1ルーブルが90金コペイカであったものを75金コペイカに、額面額20コペイカ以下の低額面銀貨は1ルーブル60コペイカで1金ルーブルとされていたものを2ルーブル50コペイカで1金ルーブルに、銅貨は表記価格で通用したものを5分の2に、それぞれ引き下げられた。

è  露国新貨幣制度 (1924 (大正13).4.30 「大阪朝日新聞」)

なおもロシア国内には様々な通貨が出回っており、特に帝政時代の金貨や銀貨の流通はその額も多く、比較的高値で取引されていた。 金貨はほとんど投機取引の対象になっていた。 ソヴェト政府はロシア国内の通貨をチェルヴォネツ貨幣で統一するため、帝政時代の硬貨の使用禁止令を発布し、その引換のために各県に交換所を設け、その換算率を 1/10 チェルヴォネツ (1金ルーブル) に対して帝政時代の硬貨2ルーブル50コペイカと定めた。 硬貨の投機的買占めに対しては厳重に取締まり、違反者は厳罰に処せられた。

è  労農の貨幣政策は猶太人の食餌か (1924 (大正13).11.25 「満州日日新聞」)

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モスクワの中央執行委員会および人民委員会の決議により、「全ロシア国境地方において、政府の特別に定めた地方を除き、国境より50露里 (約53.3 km 、1露里 (ヴェルスタ) は約1066.8 m) の奥地に居住するものは金貨や銀貨ならびに白金・金・銀塊などの所有を禁止することは勿論、これらで取引を行うことを厳禁し、また外国の貨幣や紙幣を所有したり、これらで取引を行うことをも厳禁すると同時に、住民は総てソヴェト・ロシアの法律により制定される現行通貨を所有使用すべく、これに違反するものは密輸罪として処罰すべき」 旨の法令を発布した。 この法令に基づいて、アムール州執行委員会では、これを実施する方法として、住民が所有する貴金属および外国貨幣の数量を調査し、これを一定の相場でチェルヴォネツ紙幣に交換することにした。 もし貴金属や外国貨幣を隠匿するものがいたら、これらの隠匿物を没収し、違反者を処罰することにした。 この禁止令は、貴金属や外国貨幣の国外流出を防止する手段に他ならない。

è  金銀貨や外国貨幣の使用を厳禁 (1924 (大正13).6.30 「満州日日新聞」)

1925年1月30日付中央執行委員会の法律をもって、極東地方およびブリヤートにおける帝政時代の銀貨の引換期限は、1925年3月1日と定められた。

 


コルチャークの通貨改革      通貨干渉戦争始末 (シベリア出兵と朝鮮銀行券)

 

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極東共和国の緩衝紙幣 / 通貨干渉戦争始末 (シベリア出兵と朝鮮銀行券)

《トピック》 アムール河の波 / ロシア革命の貨幣史


《解 説》 1918−22年、シベリアの社会・政治情勢 
シベリア争乱、1918−1920年 / チェコスロヴァキア軍団事件 / シベリア出兵 / 極東共和国