ロシア革命の貨幣史 (シベリア異聞)

 

 

Амурские волны

 

アムール河の波 Амурские волны

極東ロシアの活動家たちが発行した紙幣は、逆巻くアムール河の波のように、
革命と動乱の渦中に現れては消え去った。

 

1917年の二月革命によって成立した臨時政府は、連合国に対してドイツとの戦争完遂を宣言し、膨大な戦費を賄うために紙幣を増発した。 流通市場における通貨膨張は、戦時下での国民経済全体に及ぶ生産の減少や鉄道輸送の混乱などと相まって、物価の騰貴を引き起こし、それが紙幣の増発を更に激化させた。 帝政時代には通貨の膨張率が物価の騰貴率を凌駕していたが、1917年の春以降は、紙幣の乱発が激しくなったにもかかわらず物価の騰貴速度を追い越すことができなくなり、流通市場における通貨総額の実質価格は減少し、通貨の不足が一層深刻になってきた。 しかも、臨時政府は通貨不足に対処するため、より高額面の紙幣を発行するようになり、そのため、1917年の後半になると、特に中央から遠く隔たった辺境地域での小額面通貨の欠乏は危機的な状況になってきた。

1918年9月、日本のシベリア派遣軍が極東ロシアの各地に進攻し (シベリア出兵)、11月には西シベリアのオムスクの全ロシア臨時政府 (コルチャーク 政府) がシベリア・極東地方の全域に覇を唱え、自己の通貨である 「シベリア紙幣」 (国庫債券や国庫紙幣) をオムスクよりシベリア・極東地方に対して供給するようになるが、 それ以前に、アムール河沿岸の2つの都市ハバロフスクとブラゴヴェシチェンスクで、日本との因縁浅からぬ3人の活動家によって、それぞれの活動家の名を以て呼ばれる三様の独自紙幣が発行されている。

 


 

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極東地方概観図 ウスリー河がアムール河へ注ぐ合流点の近くに位置するハバロフスク市は、内戦当時の人口51,300 (現在は約60万人) で、ヴラヂヴォストク (91,464人) に次ぐ沿海州第2の都市であった。 軍港であり国際貿易港であったヴラヂヴォストクに対して、ハバロフスクは沿海州の行政の中心地であった (現在はハバロフスク地方の首都)。

アムール州の州都ブラゴヴェシチェンスク市は、内戦当時の人口62,500 (現在は約23万人)で、アムール河の左岸、ゼーヤ河との合流点に位置する満洲との国境の都市。 アムール河を挟んで対岸は中国領ヘイホー (黒河) で、その地を当時ロシアでは満洲語で 「黒い」 を意味するサハリャン (Сахалян) と呼んでいた。 当時の極東地方は食糧を自給できず、満洲や朝鮮、蒙古などからの輸入に頼っていたが、北満からの獣肉や牛酪製品などの食糧品はアムール河対岸のアイグン (璦琿。 現在は黒河市愛輝区) を経てブラゴヴェシチェンスクへ入れ、北方のザバイカル州の鉱山地帯や下流の沿海州へ輸送するなど、ブラゴヴェシチェンスクは貨物の集散基地であった。

 

クラスノシチョコフ紙幣

1918年7月25日、 ハバロフスクの極東人民委員会議 (Дальсовнарком) は、「ハバロフスク地方に貯蔵されている金を保証にして」、地域紙幣を発行することの法令を発布し、額面10、25、50ルーブルの紙幣を発行した。 紙幣には極東人民委員会議議長 A.M.クラスノシチョコフ の署名があり、そのため、これらの紙幣は 「クラスノシチョコフ紙幣 «Краснощековские»」 と呼ばれていた。

クラスノシチョコフ紙幣  クラスノシチョコフ紙幣

 

A.M.クラスノシチョコフ (Александр Михайлович Краснощёков, 1880-1937.11.26) は、1902年にアメリカ合衆国へ亡命し、1917年の二月革命の後にロシアへ帰還したが、このとき横浜、敦賀を経由している。 彼は、1917年8月にヴラヂヴォストクに上陸すると、直ちにボリシェヴィキに入党して地区ソヴェトの代議員になった。 十月革命後の1917年12月12日〜16日にハバロフスクで開かれた第三回極東地方ソヴェト大会で、極東地方の全権力をソヴェトに委ねることが決定され、クラスノシチョコフを議長とする極東地方ソヴェト執行委員会が選出された。 翌1918年には、クラスノシチョコフは極東人民委員会議議長に選任されている。 ハバロフスクの独自紙幣はこの極東人民委員会議によって発行されたものである。

1918年9月4日、ハバロフスクに日本軍が進攻すると、極東人民委員会議は解散して、地下活動に入った。 1920年4月6日に 極東共和国 が成立すると、クラスノシチョコフはその首班として、日本軍に対するシベリア撤退交渉の責任者となったが、後年、「反ソ、親米、親日活動をした」 との嫌疑がかけられ、粛清・処刑された。

 

アレクセーエフスキー紙幣

ブラゴヴェシチェンスク市庁は1918年1月より額面1、3および10ルーブルの 「ブラゴヴェシチェンスク市補助紙幣」 を発行した。 紙幣にはブラゴヴェシチェンスク市長 A.N.アレクセーエフスキー の署名があり、それにより 「アレクセーエフスキー紙幣 «Алексеевские»」 と呼ばれている。

アレクセーエフスキー紙幣  アレクセーエフスキー紙幣

 

A.N.アレクセーエフスキー (Александр Николаевич Алексеевский, 1878‐1957) は、1903年にペテルブルグ神学校を卒業し、ブラゴヴェシチェンスクの神学校の教師に就いたが、1906年の第一次ロシア革命後に国外へ亡命し、1917年に帰還した。 その間の一時期、日本に亡命しており、亡命革命家ニコライ・ラッセルらが日露戦争のロシア兵捕虜の啓蒙活動のために長崎で発行していたナロードニキの革命機関紙 「ヴォーリャ (自由)」 に関与している。

「ブラゴヴェシチェンスク監獄を1907年に出獄し、その後10年間、パリで暮らした」 とする記録もあるが、石光真清の手記 『誰のために』(中公文庫) には、「長崎に永い間亡命していた」・・・「その後数年の間、米、英、フランス、ベルギーなどの諸国を流浪」 したと、アレクセーエフスキー自身が語ったとある。
è  石光真清の手記
「ヴォーリャ」 紙は1906年4月27日に発刊され、1907年3月8日の 「98/99号」 が最終号であった。

社会革命党 (エスエル) 右派に属していたアレクセーエフスキーはボリシェヴィキと対立した。 アムール州でボリシェヴィキがまだ少数派であった時期、1917年8月に、アレクセーエフスキーはブラゴヴェシチェンスク市長に選出され、12月に 「全ロシア憲法制定会議」 のアムール社会革命党の代議員に選ばれた。 彼は、「全ロシア憲法制定会議」 の解散後にブラゴヴェシチェンスクへ戻ってきたが、1918年2月25日にアムール州の権力がボリシェヴィキの手に移ったことに反発して、3月6日に蜂起したアムール・コサックの反ソヴェトクーデターを支持した。 そのため、クーデターが失敗すると、アレクセーエフスキーは逮捕・投獄された。 しかし、1918年9月18日に日本軍がブラゴヴェシチェンスクへ進攻すると、アレクセーエフスキーは出獄し、9月21日に反ソヴェトのアムール臨時政府を樹立して、その議長に就任した。 そして、1918年11月2日から 「アレクセーエフスキー紙幣」 の発行を再開した。

アレクセーエフスキーは、反革命の側からは 「アムール分離主義者 (амурский сепаратист)」 と見なされ、ボリシェヴィキからは 「日本干渉軍の走狗 (ставленник японских интервентов)」 と非難されていた。 彼は、日本紙幣 (朝鮮銀行券) がアムール州で流通することを公的に決定し、1円に対して5ルーブルの相場で交換されるものとした。 しかし、この決定は新たな投機とルーブルの激しい下落を引き起こした。

1918年11月11日、アムール臨時政府はアムール州の統治権を州自治庁へ引き渡し、アレクセーエフスキーは自らの職を辞した。 オムスクの 「全ロシア臨時政府」 からの圧力によるものであった。 統一・不可分のロシアの復活を目論み、極東地方の全政権を掌握しようとする 「全ロシア臨時政府」 にとって、「アムール分離主義者」 のアレクセーエフスキーは好ましからざる人物であったからである。 イギリスの支持するA.V.コルチャークがクーデターによって 「全ロシア臨時政府」 の最高執政官に就任し、軍事独裁政権を樹立するのは、それから間もなくの11月18日のことである。

その後、アレクセーエフスキーは1919年12月〜1920年1月にはイルクーツクにおける反コルチャーク蜂起に参加し、逮捕されたA.V.コルチャークとV.N.ペペリャーエフの特別予審委員会の委員を務めている。 1920年4月、ヴラヂヴォストクで非ボリシェヴィキ勢力の指導者などから緩衝国家の設立計画に関連した情報を収集していた 「浦潮派遣軍付政務部長」 の松平恒雄 (外務参事官) は、4月26日に 「前黒龍政府首班アレクセーフスキー」 から事情聴取した状況を日本の外務省へ打電している (外務省編纂 「日本外交文書」 大正九年第一冊下巻)。 それ以降のA.N.アレクセーエフスキーの消息は不明である。

《追記》 "アムールスカヤ・プラヴダ Амурская правда" (Web版 2007年1月12日および2008年11月21日、12月5日) に、アレクセーエフスキーに関する記事が掲載された。 それによれば、アレクセーエフスキーは、1920年代の初頭から家族と共にパリで質素に暮し、フランスの政府機関で働いていた。 アレクセーエフスキーはロシアや東洋での生活について語ることを好まず、多分それは、触れられたくないところであったためであろう、という。 1957年に、道路横断中にオートバイによる交通事故でアレクセーエフスキーは亡くなった、とのことである。

 

ムーヒン紙幣

1918年4月17日に、アムール州執行委員会は5、15、25、100ルーブルの額面で紙幣を発行した。 これらの紙幣には、アムール州執行委員会議長 F.N.ムーヒン の署名があり、そのため紙幣は 「ムーヒン紙幣 «Мухинки»」 と呼ばれてる。 アムール州執行委員会の紙幣は極東地方の他の州にも広く流通した。 アムール州執行委員会は、4月10日から5月17日までの間、 「アレクセーエフスキー紙幣」 の発行も継続している。

1918年8月22日、極東人民委員会議 (議長クラスノシチョコフ) の財務代表部は、次のような特別指令を発布した。 「極東人民委員会議は、アムール州人民委員会議により発行されたアムール紙幣と呼ばれる補助紙幣が極東地方の全領域において、全ての全国的信用券と同等に流通することを通知する。」

ムーヒン紙幣  ムーヒン紙幣

 

F.N.ムーヒン (Федор Никанорович Мухин, 1878-1919.3.9) は、1904年以来のロシア社会民主労働党 (ボリシェヴィキ) の党員であった。 1918年2月1日にブラゴヴェシチェンスク労農代表者ソヴェトは、市の権力の最高機関であることを布告し、1918年2月25日に行われた第四回アムール州農民代表大会で、権力のソヴェトへの移行と、アムール州自治庁とブラゴヴェシチェンスク市議会の解散が宣言され、アムール州労農兵士代表ソヴェト議長には、ボリシェヴィクのF.N.ムーヒンが選ばれた。 1918年4月1日、第五回アムール州勤労者統一大会は、アムール労働社会主義共和国を宣言した。

アムール労働社会主義共和国人民委員会議は、日本軍と白衛軍部隊がブラゴヴェシチェンスク市へ進撃してくることに対処するため、1918年9月4日に軍事委員会へ権力を移譲し、9月18日にブラゴヴェシチェンスが日本軍および白衛軍に占領されると、パルチザン活動に入った。

ムーヒン紙幣は10月19日に印刷が中止されたが、A.N.アレクセーエフスキーのアムール臨時政府は、ムーヒン紙幣がロマノフ紙幣やケレンスキー紙幣などの旧紙幣と同等に等価で流通することを認めている。

F.N.ムーヒンは、1919年3月に日本軍に逮捕されて処刑されたとも、白衛コサックに捕縛され日本軍に引き渡された後に銃殺されたとも言われている。

F.N.ムーヒンと深い親交のあった、おそらく唯一人の日本人である石光真清は、ムーヒンについて次のように記録している。  è  石光真清の手記

 


 

石光真清が見た、激流のアムール河 ― 1918年

予備役陸軍少佐 石光真清 (1868-1942) は、ロシア革命直後の1918年1月から1年余りをブラゴヴェシチェンスクにおいて、関東都督府陸軍部嘱託として諜報と謀略の任務に携わっていた。 彼は、3人の活動家 ― A.M.クラスノシチョコフ、F.N.ムーヒン、A.N.アレクセーエフスキーを直接に知る唯一の日本人であり、殊にムーヒンおよびアレクセーエフスキーと親密な関係を持っていた。 その数奇な体験を克明に綴った記録 (手記) は、彼の歿後、遺族 (長男真人) によって 『続諜報記 ― シベリヤ篇』 として発表された (1945.5.20刊)。 後年、この 『続諜報記 ― シベリヤ篇』 は、刊行当時の社会情勢から発表を憚 (はばか) られた部分が追補されて、全面的に再整理され、「石光真清の手記」 4部作の最終篇として 『誰のために』 の書名で発刊されている (1959.11)。

 è  石光真清 「続諜報記 ― シベリヤ篇」

 

石光真清が見た、1918年初頭のブラゴヴェシチェンスクの経済事情

 è  ブラゴヴェシチェンスクの経済事情、1918年初頭

 


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