ロシア革命の貨幣史 (シベリア異聞) |
コルチャークの通貨改革
コルチャーク 政権下のシベリアでは雑多な種類の紙幣が流通しており、流通市場は極度に混乱していた。
そこで、通貨の安定を急務とするオムスク政府 (全ロシア臨時政府、コルチャーク政府) は、貨幣改革を断行した。
それは、広く流通していた ケレンスキー紙幣 を、十月革命以前のケレンスキー臨時政府が米国に印刷を注文したまま未発行であった 1917年様式4 1/2% 割増金付国内債券 と交換して、流通市場から回収することにあった。
1919年春
シベリアおよび極東地方における通貨制度は、極度に混乱している。
ここでは、オムスク政府が発行している シベリア紙幣 (オムスク紙幣) のほか、ケレンスキー紙幣 や帝制時代の ロマノフ紙幣 が広く流通しているが、
そのほか、ハバロフスク地方では クラスノシチョコフ紙幣、ブラゴヴェシチェンスク地方では ムーヒン紙幣 といった、地方ソヴェト政権が発行した地域的な紙幣 が流通している。
しかも、これらの紙幣は、種類が雑多であるばかりでなく、それぞれの価値が異っており、商取引における不利不便はこのうえない。 例えば、クラスノシチョコフ紙幣やムーヒン紙幣はオムスク政府のシベリア紙幣より1〜2割安く、シベリア紙幣はケレンスキー紙幣より1〜2割安い。 そして、ケレンスキー紙幣はロマノフ紙幣よりさらに2〜3割安く、しかもその相場も日ごとに異なるなど、迂闊には取引できない状況である。 そのなかで、最も高価なロマノフ紙幣は、中国人商人たちの手に買い占められて、流通市場にはほとんどその影を止めておらず、そのため相場を狂わすだけでなく、取引上で様々な不便が生じている。 現在、シベリアの流通市場で最も多く流通している紙幣はケレンスキー紙幣とオムスク政府のシベリア紙幣であるが、外国籍の銀行ではロマノフ紙幣とケレンスキー紙幣以外の紙幣は取り扱っていない。 これは、連合国各国が帝政政府とケレンスキーの臨時政府は承認していたが、それ以外の政権については承認していないことによる。 貿易商が、仮にシベリア紙幣で商品を売り、その代金を自国へ送金しようとする場合には、商品の代金であるシベリア紙幣でケレンスキー紙幣を買い、これを銀行に払い込んで為替を発送することになる。 そのため、ケレンスキー紙幣はその需要が多く、価格が騰貴する一方であるため、利に聡い中国人商人に買い占められて、最近ではそれを手に入れることが容易でなくなってきた。 貨物を輸入してこれを売却してもロシア国内でしか通用しない 「紙屑同然」 のシベリア紙幣しか手にすることができない貿易商などは、ケレンスキー紙幣を手に入れることができないために為替を振り出すことができず、 そのため輸入は途絶しつつあるといった状態にある。 外国籍の銀行が、オムスク政府のシベリア紙幣やそれ以外の政権が発行した紙幣を、ロマノフ紙幣やケレンスキー紙幣と同様に認めて、取り扱うようになれば全く差し支えないのであるが、各銀行は連合国各国の承認しない政府が発行した紙幣を通貨として取り扱わない。 以前には、最も信用があったロマノフ紙幣が流通市場から全くその影を潜めたように、最近ではロマノフ紙幣に次いで信用があるケレンスキー紙幣もほとんど姿を消し、シベリアの流通市場では、外国籍の銀行に通貨として承認されていない紙幣のみとなっている。 è 西伯利の乱脈 (上) (1919 (大正8).4.15 「東京日日新聞」)
ケレンスキー紙幣の回収 シベリアでは、ソヴェト政府および各地方政府が発行した紙幣が、ほとんど無制限に流通しており、そのためルーブル相場が著るしく低落している。 これを放任すれば紙幣はほとんど廃紙同様になってしまう状況である。 その中でも、20ルーブルと40ルーブルの ケレンスキー紙幣 による弊害が著しい。 (十月革命後も、ソヴェト政府はケレンスキー紙幣を引き続き発行していた。) そこで、オムスク政府は、シベリアにおける弊制を統一することが緊要であるとして、流通市場からケレンスキー紙幣を回収し、 オムスク政府が発行する紙幣 (1917年様式4 1/2% 割増金付国内債券) と交換することにした。 シベリア紙幣の最近の相場は (第一次大戦前には、1ルーブルが約1円3銭であったものが) 1,200 (100円に対するルーブル) 、ケレンスキー紙幣は 1,000 (同) に低落しているが、 その原因は、第一次大戦終結によるパリ講和会議でロシアのルーブルによる貿易取引を一切禁止することが決議されたこと、大量の偽造紙幣が出現していることに影響されたものである。 そのため、オムスク政府は額面40ルーブルと20ルーブルのケレンスキー紙幣の流通を停止する法案を可決した。 これにより、5月1日以降はケレンスキー紙幣の国庫および民間での受渡が停止され、流通しているケレンスキー紙幣の半分が6月1日より6か月内に回収され、1920年1月1日より残りの半分の回収が実施されることになる。 その結果、ケレンスキー紙幣は更に暴落し、シベリア紙幣の相場は幾分持直すことになるはずである。 これは、オムスク政府が (第一次大戦前の価格で) 7億ルーブル以上もの黄金を所有しているためである。 この黄金は、もとはロシア国立銀行の金準備で、ソヴェト政府が戦禍を避けてカザンに移送していたものを、オムスク政府軍がカザンを占領したときに捕獲したものである (è ロシアの黄金強奪事件)。 オムスク政府は、この黄金を兌換準備として、徐々に紙幣の安定を保つことができるようになるものと考えている。 è
西伯利財界恐慌 (1919 (大正8).4.13 「大阪朝日新聞」)
オムスク政府は、前年の1918年10月にカザン市から移送を受けた 「7億ルーブルの黄金」 によって、 財政の基礎固めができたとしていたが、11月にコルチャーク提督が政権を把握して以来、財政状態は急速に悪化していた。 当時のシベリアは、もともと産業などの財源の乏しい地域であり、オムスク政府はもっぱら 「印刷機によって」、すなわち財源を紙幣の発行に頼らざるを得なかったが、その紙幣は紙質、印刷技術ともに粗悪なものであった。 さらに、貨幣価値を維持しようとするには政府発行以外の紙幣の流通は認めるべきではないのに、旧政権下で発行された紙幣のみならず、ソヴェト紙幣の流通すら認めていた。 シベリアでは、オムスク政府のシベリア紙幣以外にも雑多な紙幣が流通することになり、しかもシベリア紙幣のほうが劣質であったので、その価値は下落し、インフレが増大した。 また、オムスク政府は金の公定相場を 「金1ゾロトニク = 36ルーブル」 から 52ルーブルに引き上げたため、ますますシベリア紙幣の価値は下落した。
1919年の春、オムスク政府はようやく ケレンスキー紙幣 の引上げを断行した。その回収条例は次のようになっている。
提供した紙幣に対して交付する債券の受領書およびその様式については、財務大臣に一任する。 なお、これに関する必要な法令発布の権利を付与する内閣総理大臣は、この法令に署名しなければならない。 (財務大臣 ミハイロフ) è
ケ紙幣回収断行 (1919 (大正8).4.28 「時事新報」)
ケレンスキー紙幣 の廃止後、シベリアにおける通貨の不足はますます甚だしく、現在では信用の如何を問わず、とにかくケレンスキー紙幣を使用しなければ用が足せない窮境に陥りつつある。 ケレンスキー紙幣の廃止は、現地の日本人その他の損失が多大であるため、日本政府もオムスク政府に対して抗議を試みたが、ケレンスキー紙幣の廃止にはやむを得ないものがあり、また従来よりロシアはいったん発布した法令を容易に変更したことがないため、ハルビン在住の日本人に対しては極力期日までに指定銀行でケレンスキー紙幣を引き換えるよう勧告した。 オムスク政府の シベリア紙幣 に信用がないのは、紙質が粗悪であるうえ、種類が不統一で偽造され易いためで、ロシアの銀行でも前日に出した紙幣を翌日は偽造紙幣と間違えて受け取らないといった状態である。 これをみてもシベリア紙幣の使用が如何に不便であるかが推察できる。 è 西伯利の財界 (1919 (大正8).6.5 「大阪毎日新聞」)
物々交換によってロシアから何かを輸出しようとしても、輸出できるような適当な貨物もなく、また、鉄道貨車が不足して輸送途絶の状態になっている。 どちらにしても、紙屑に等しい紙幣を抱え込んではどうしようもない。 こにいたって、貿易は全く途絶えた状態になっている。 このような状況にもかかわらず、モスクワのソヴェト政府だけでなくオムスク政府も財政難のため、毎日数十万ルーブルもの新紙幣を発行し続けている。 紙幣は日々に増加する一方で紙幣の価値は日々に暴落し、さらに、このときに乗じて多数の偽造紙幣も現れて、今や紙幣の氾濫によって、シベリアや極東の住民はますます塗炭の苦しみに陥るという状況である。 オムスク政府の発行紙幣が外国の銀行で通貨として承認されなければ、近い将来ロシアからの輸出は全く途絶することになり、シベリアや極東の住民は一層饑餓の状態に陥ってしまうであろう。 このような状況を打破してシベリアや極東の住民を救済するには、結局は連合国各国がオムスク政府を一地方の政府としてでも承認して、借款 (国際間の貸借) を起こさせるより外はないが、 部分的に各地の政府を承認すれば以前に連合国各国が承認した革命前後のロシア政府に対する借款などは当分お流れと見るより外ないため、連合国各国も部分的な政府承認を躊躇しており、 何とかして全ロシアの統一政府の出現を望んでいるのであるが、現在のロシアには全国を統一する 「全ロシア政府」 といったものは、近い将来にも、まず成立しないものと思われる。 è 西伯利の乱脈 (下) (1919 (大正8).4.18 「東京日日新聞」) 連合国各国はオムスク政府を支持していたが、承認はしていなかった。 同政府は他の地方政府からの支持を得て "ロシア政府" を公言するが、実体はいぜんとしてシベリア地区の政治団体である。 地方の住民の支持も、不安定である。 なじみ深かった帝制時代の提督であるコルチャーク海軍中将を首長にするオムスク政府には親近感を感じるし、その 「露国復興」 のスローガンは耳を傾けやすい。 しかし、なにかと人と物と金を徴発され、しかも敗退をつづける戦況に直面しては、オムスク政府にたいする信頼感は、希薄化せざるを得ない。 政府軍の後退がつたえられていらい、付近の住民の間に反政府的言動が目立ち、政府内部にも動揺の気配がうかがわれていた。 (児島 襄 「平和の失速 (三)」 P.448) è オムスク札の前途悲観 (1919 (大正8).10.29 「大阪朝日新聞」)
ハバロフスク事情
(朝鮮銀行哈爾賓 (ハルビン) 出張所主任 佐藤源重氏の談) ハバロフスク地方では、クラスノシチョコフ紙幣 などの地方的な代用紙幣が多く出回っているが、オムスク政府のシベリア紙幣は3月までに 150万ルーブルがハバロフスク市に到着したのみである。 朝鮮銀行ではケレンスキー時代の紙幣およびロマノフ時代の旧紙幣を通貨として認め、他は一切認めておらず、交換などは絶対に謝絶している。 シベリア紙幣は一般に見栄えのするデザインではあるが、わが朝鮮銀行としてはこれらオムスク紙幣をソヴェト紙幣と同一に見て、未だ取り扱っていない。 è 西伯利経済事情 (1919 (大正8).4.20 「京城日報」)
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シベリアの通貨事情 /
コルチャークの通貨改革 /
《解 説》
1918−22年、シベリアの社会・政治情勢 |